パウサニアスはペロポネソス戦争の最後を指導した。彼は紀元前405年に共同統治者のアギス2世と共にアテナイ封鎖を指揮し、アテナイを降伏に追い込んだ[2]。ペロポネソス戦争の後、アテナイでは親スパルタの寡頭政府三十人政権が成立したが、将軍トラシュブロスら民主派が反旗を翻した。紀元前403年にパウサニアスは民主派を粉砕するために軍と共にアッティカへ送られた。彼はアテナイの民主派と矛を交えはしたものの、クセノポンによればかねてより対立していた将軍リュサンドロスへの嫉妬から、またパウサニアスによればアテナイの窮状を哀れんで手ぶらで戻り、三十人政権から手を引き、アテナイの党派抗争を仲裁した[3]。これによって息を吹き返したアテナイの民主派によってアテナイでは民主政が復活した。この件でパウサニアスはスパルタで告訴されたが無罪を勝ち取った[4]。
コリントス戦争に際して、紀元前394年にパウサニアスとリュサンドロスはそれぞれ一軍を率いてボイオティアに侵攻した[5]。しかし、パウサニアス隊の遅延のためにリュサンドロス隊はハリアルトスの戦いで敗れ、リュサンドロスは戦死してしまった。戦いの後に到着したパウサニアスは一度はボイオティア軍と戦おうとはしたが、トラシュブロス率いるアテナイ軍の接近を知り、挟み撃ちを恐れてテバイと休戦条約を結んで戦死者の遺体を回収して帰った[6]。援軍が間に合わずにリュサンドロスを死なせてしまったこと、戦いもせずに帰ったこと、さらにためにアテナイの民主派への協力的な態度から、パウサニアスは死刑の宣告を受けたが、刑の執行の前にテゲアに亡命した[7]。
註^ トゥキュディデス, III. 26
^ クセノポン, II. 2. 4-20
^ クセノポン, II. 4. 29-39
^ パウサニアス, III. 5. 1-2
^ クセノポン, III. 5. 6-7
^ パウサニアス, III. 5. 4-5; クセノポン, III. 5. 23-24
^ パウサニアス, III. 5. 6; クセノポン, III. 5. 25
参考文献
クセノポン著、根本英世訳、『ギリシア史』、京都大学学術出版会、1998年
トゥキュディデス著、小西晴雄訳、『トゥーキュディデース 世界古典文学全集11』、筑摩書房、1971年
パウサニアス著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、龍渓書舎、1991年
先代
プレイストアナクススパルタ王(アギス朝)
紀元前445年 - 紀元前428年次代
プレイストアナクス
先代
プレイストアナクススパルタ王(アギス朝)
紀元前409年 - 紀元前394年次代
アゲシポリス1世
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