バーレスク
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1831年にオリンピック座を開いたマダム・ヴェストリスことルシア・エリザベス・ヴェストリスはこの劇場で様々なバーレスクを上演した(その第一作はジェームズ・プランシェの『Olympic Revels 』であった)[16]。ほかにバーレスクの劇作家としては、ヘンリー・ジェームス・バイロン、ジョージ・ロバート・シムズ、フランシス・カウリー・バーナンド、ウィリアム・シュベンク・ギルバート、フレッド・レスリーがいる[17]。ロンドンのバーレスクのスターとしてはルシア・エリザベス・ヴェストリスリディア・トンプソンが有名である[18][19]

ヴィクトリア朝のバーレスクはイギリスの伝統芸であるパントマイムとも結びつけられることがあり、それに「こっけいなせりふと『ひねり』を加え」られた芝居という意味ではパントマイムに由来するものでもある[20]バラッド・オペラなどに連なる初期のバーレスクでは、歌詞がポピュラーミュージックにあてて書かれていたが、後期のバーレスクはオペラオペレッタミュージック・ホールレヴューなどの音楽をミックスしたものであり、さらに一部のもっと野心的な興行であれば、自分たちで作曲したオリジナルの音楽を持っていた。このイギリス式のバーレスクは、1840年代にニューヨークへと紹介され人気を博した[21]『現代のファウスト』のシートミュージック

バーレスクの題材としても最もよくかけられたのは、シェイクスピアの戯曲とグランド・オペラだった[22]。対話はふつう押韻連句で進み、アクセントとして大量のだじゃれがちりばめられた[20]マクベスもののバーレスクの典型として、次のような対話があった。マクベスとバンクォーが傘をさして登場し、魔女たちが二人を「万歳!万歳!万歳!」(Hail! hail! hail!)と出迎える。マクベスがバンクォーに「あの挨拶はどういう意味だろう」とたずねると、「あの万歳はあなたの『治世』を予言したものだ」(These showers of 'Hail' anticipate your 'reign'[23])という答えが返ってくる[24]。また何よりもバーレスクに肝心なのは魅力的な女性の男装した姿であり(ズボン役)、女優は足を目立たせるためタイツをはいていたが、芝居そのものが下品なほどいかがわしくなることはまれであった[20]

1860年代から90年代にかけて、バーレスクはゲイエティーやストランドなどロンドンにある劇場にとって目玉となった。1870年代には、30分以内に終わる一幕物がほとんどになっており、ポピュラーソングやオペラのアリアなど聴衆がすぐにわかるような曲のパスティーシュやパロディが行われた。当時の人気俳優はネリー・ファレン、ジョン・ダーバン、エドワード・テリー、フレッド・レスリーである[17]。1880年ごろから、ヴィクトリア朝のバーレスクは上演時間が長くなる傾向にあり、二本立てや三本立てするどころか、午後を丸々潰してしまうまでになっていた[17]

1890年代の初め頃のロンドンでは、こうしたバーレスクの流行は過ぎてしまい、ゲイエティー劇場などの出し物は、より健全な、しかも文学から遠いジャンルであるエドワーディアン・ミュージカル・コメディー(Edwardian musical comedy)が中心に移り変わった[25]
アメリカン・バーレスク詳細は「アメリカン・バーレスク」を参照バーレスク一座の広告(1898年)

アメリカン・バーレスクは上記のようにヴィクトリア朝のバーレスクの流れをくむ。1840年代からニューヨークではイギリス式のバーレスクが上演され、成功を収めていた。イギリスのバーレスク一座である、リディア・トンプソンとブリティッシュ・ブロンズは1868年に初めてニューヨークを訪れ、人気となった[26]。ニューヨークにおけるバーレスクショーが、当時人気のあったミンストレル・ショーの要素と構成を取り入れるまで時間はかからなかった。当時のショーは三つのパートから成った。まず歌と、低俗喜劇の役者による滑稽で猥雑なスケッチ、次にオリオと呼ばれる軽演劇と男性によるアクロバット芸や手品、独唱などの混成パート、三つめが合唱であり、時にはここにイギリス流の社会風刺のバーレスクがはいったり流行の芝居がはいる。興行はたいていストリップショーかレスリングかボクシングで締めくくられた[27]

19世紀の終わりにかけてイギリスではバーレスクが次第に時代遅れになり、代わりにエドワーディアン・ミュージカル・コメディ(英語版)が盛んになった。それにあわせてアメリカ式のバーレスクの人気は最高潮に達するのだが、これは女性のヌードへの関心の高まりの裏返しであった。シリアの生まれを思わせる東洋風の出で立ちをした「クーチ」と呼ばれるエロティックなダンサーが登場するのもこの頃である。ミュージックホールや劇場と同じ数だけ、クラブやキャバレーでも興行が打たれた。20世紀のはじめには、国民的なバーレスクショーの興行網が2つあり、寄席演芸や「ウィンターガーデン」のミンスキーバーレスクのような地元の劇団と人気を競いあった[27]

アメリカン・バーレスクはその出し物を伝統的な路線から次第にストリップショーへと移行していった。はじめはスブレットが歌い踊りながら自らの身体をひけらかした。その中には動きに劣る者もいたが、かわりに彼女は凝った舞台衣装で観客の目をひいたのである[28]。そして徐々に歌って踊るスブレットにとってかわってストリッパーが主役となった。アメリカには1932年までに少なくとも150人のストリップをこなすパフォーマーがいた[28]。30年代から60年代頃までに活躍したスターパフォーマーはサリー・ランドフェイス・ベーコンジプシー・ローズ・リーテンペスト・ストームリリ・セイント・シアアン・コリオブレイズ・スター、マギー・ハートなどであり、彼女たちはロレンツ・ハートやコール・ポーターの歌詞に登場するほど有名だった[28]。バーレスクのパフォーマーはストリッパーやバーレスクダンサー、バーレスクアーティスト、ショーガールなど、さまざまな名前で呼ばれた[29]。1930年代の後半には、バーレスクショーは最大で6人のストリッパーを1人か2人のコメディアンと1人の司会者がサポートする形式が主流になっていった。キャリアの初期にこの道化役としてバーレスクショーに出演していた俳優(女優)には、ファニー・ブライス、メイ・ウエストエディ・カンターアボットとコステロ、W・C・フィールズ、ジャッキー・グリーソンダニー・トーマスアル・ジョルソンバート・ラーフィル・シルヴァースシド・シーザーダニー・ケイレッド・スケルトン、ソフィー・タッカーがいる[28]

バーレスクが催される空間に開放的な雰囲気があったのは、アルコールが飲み放題であったことが大きな理由の一つであり、禁酒法の施行によりバーレスクは壊滅的なダメージを受けた[30]。ニューヨークでは、市長であったフィオレロ・ラガーディアがバーレスクを取り締まり、1940年代のはじめにはバーレスクをショウビジネスから閉め出すほどの成果を上げた[31]。バーレスクの興行はアメリカの各地でほそぼそと続いたものの、次第に関心は失われ、劇場であたりまえのようにヌードが披露された1970年代に入ると「みじめな末路」をたどった[32]。アメリカン・バーレスクの衰退期とその後を捉えることをテーマにした映画に『バーレスクの貴婦人』(1943年)[33]や『ストリッポラマ』(1953年)[34]、『ミンスキー劇場にガサがはいった夜』(1968年)[35]がある。
ニュー・バーレスクミシェル・ラムール(ミス・エキゾチックワールド 2005)詳細は「ニュー・バーレスク」を参照

1990年代にはいると、ヨーロッパでもアメリカでも、バーレスクへの再評価が進んだ[36]ニュー・バーレスクあるいはネオ・バーレスク[31]とも呼ばれる新世代は、大がかりなショーと古典的なアメリカン・バーレスクを思わせる妖しい魅力へのノスタルジーかきたてるもので、1990年代初期のビリー・マドリーによる『シネマ』やその後のニューヨーク市でのレヴュー『ダッチ・ワイズマンズ・フォリー』、ロサンゼルスの劇団「ベルベッド・ハンマー」はカルト的な人気を得た。


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