伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。
1661年の夏にライデン近郊のレインスブルフに転居[3]。ヘンリー・オルデンバーグ来訪[3]。レインスブルフにいる間に『デカルトの哲学原理』となる原稿の第一部をある学生に口述[3]。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。1663年、ハーグ近郊のフォールブルフに移住[3]。友人らの勧めで『デカルトの哲学原理』を公表。1664年にオランダ共和派の有力者、ヨハン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。1665年『神学政治論』の執筆を開始[3]、1670年に匿名で版元も偽って出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた[4]。しかし、デ・ウィットは1672年にオランダ市民に虐殺され、スピノザは生涯最大の動揺を示したという。「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容し、その文章を殺害現場に掲示するため外出を試みた。しかし家主で画家のヘンドリック・ファン・デル・スペイクは、スピノザの身の安全を案じて外出を阻止した[注 1][6]。
1673年にプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒからハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には『神学政治論』が禁書となる。この影響で翌1675年に完成させた『エチカ?幾何学的秩序によって証明された』の出版を断念した。同書は執筆に15年の歳月をかけたスピノザの思想の総括である(スピノザ没後友人により1677年に刊行された)[7]。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。
肺の病(肺結核や珪肺症などの説がある)を患っていたため、1677年2月21日、スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。
ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。しかしスピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあった。旅行記を参照するに他の方面にも支援者はおり、当時のライデン大学の教授ゲーリンクスと同額の500ギルダーの収入を得ていた。また当時のオランダでは自然科学、とりわけ光学に大きな関心が持たれていた。スワンメルダムやホイヘンスら科学者は自らレンズを磨いて改良し、後にアムステルダム市長となるヨハン・フッデもやはりレンズを磨いていることが分かっている。当時科学に興味のある知識人は当たり前のようにレンズを磨いていたのが実態で、ましてや虹についての論文や自然科学を論じる書簡が残っているスピノザの場合、生計のためというより探究のためと考える方が道理だろう[8]。
生前に出版された著作は、1663年の『デカルトの哲学原理』と匿名で出版された1670年の『神学政治論』(Tractatus Theologico-Politicus)だけである。『知性改善論』(Tractatus de Intellectus Emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『ヘブライ語文法綱要』(Compendium grammatices linguae hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。