18世紀末以来サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は内乱状態に陥り[3]、カンダハールを拠点とするバーラクザイ部族が勢力を伸ばした[4]。バーラクザイ部族はサドーザイ朝で宰相(ワズィール)を出す部族であり[1]、勢力拡張を嫌ったカームラーン王子 (Shahzada Kamran Durrani) が1818年に部族の長ムハンマド・アズィーム(別名ファトフ・ハーン。1778年 - 1818年)を殺害すると[7]、バーラクザイ部族は各地で反乱をおこし、サドーザイ朝は事実上崩壊した[7]。
ムハンマド・アズィームの弟であるドースト・ムハンマドは1826年にカーブルを掌握し[3]、ハーンを称してハン国を建国した。しかし、その後もしばらくは、彼の兄コハンデル・ハーンがカンダハールを本拠とし[7]、カームラーン王子と宰相ヤール・ムハンマド・ハーンのサドーザイ朝残存勢力がヘラートを本拠として[7]、アフガニスタンに鼎立する状態が続いた[3]。こうした対立は、当地を支配下に置こうとするイラン(カージャール朝)の動向や、ロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)と結びついた[8]。 1835年、ドースト・ムハンマドは君主の称号をアミール(首長)に変えた(アフガニスタン首長国)。 ドースト・ムハンマドのロシアへの接近を警戒したイギリスは、サドーザイ朝の復興を目指すシュジャー・シャーを支援してアフガニスタンに介入(第一次アフガン戦争、1838年 - 1842年)。ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスによる逮捕・追放などを経ながら、1843年に復位し、その後20年間アフガニスタンを統治した。1855年にはイギリスとの友好条約(ペシャーワル条約)を締結し、インド大反乱ではイギリスを支援した。国内にあっては、コハンデル・ハーンの死(1855年)後の混乱に乗じてカンダハールを占領[9]、1863年にはサドーザイ家の手にあったヘラートを併合し、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた。 ドースト・ムハンマド・ハーンの跡を継いだシール・アリー・ハーン(在位:1863年 - 1866年、1868年 - 1878年)は、同族間の紛争に直面した。1878年には、シール・アリーのロシアとの接近を危惧したイギリスからも宣戦された(第二次アフガン戦争、1878年 - 1881年)。シール・アリーの跡を継いだヤアクーブ・ハーン
アフガニスタン首長国
妥協を図ったイギリスは、シール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880年 - 1901年)を保護国アフガニスタンのアミールとして認めた。この際、ガンダマク条約が確認され、アフガニスタンの南東国境(現在のアフガニスタンとパキスタンの国境)が画定された。ただし、その後もイギリスとアブドゥッラフマーン・ハーンを認めない抵抗は続き、1880年にはマイワンドの戦い(英語版)においてイギリス軍がアイユーブ・ハーン(英語版)(シール・アリーの子)に大敗を喫した。
アブドゥッラフマーン・ハーンは、中央集権を推進したが、一方で抵抗も根強く、イランに亡命したアイユーブ・ハーンとの戦いも行われた。
アフガニスタン王国詳細は「アフガニスタン王国」を参照
アブドゥッラフマーンの孫にあたるアマーヌッラー・ハーン(在位:1919年 - 1929年)は、王族間の内紛を制して即位すると、第一次世界大戦での疲弊をとらえてイギリスに宣戦(第三次アフガン戦争)。アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)が結ばれた結果、アフガニスタンは外交権を回復し、完全独立を達成した。
アマーヌッラー・ハーンは、急進的な改革を進め、1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。しかし急激な改革は、聖職者階級の反発をまねき、1929年にアマーヌッラー・ハーンは王位を追われた。
各地に僭称者が乱立する混乱を収拾したのは、王家の傍流ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーであった。このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して「ムサーヒバーン朝」と呼ぶこともある。ムサーヒバーン朝では、聖職者階級との妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねき、1973年、ザーヒル・シャーの従兄弟、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。
最後の国王ザーヒル・シャーは、アフガン国民統合の象徴として、現在も尊敬の念をもたれている。 アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)
歴代君主
ドースト・ムハンマド・ハーン(1835年 - 1839年、1845年 - 1863年)
ワジル・アクバル・ハーン
シール・アリー・ハーン(1863年 - 1866年、1868年 - 1879年)
ムハンマド・アフザル・ハーン(英語版)(1866年 - 1867年)
ムハンマド・アーザム・ハーン(英語版)(1867年 - 1868年)
ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン(英語版)(1879年)
アイユーブ・ハーン(1879年 - 1880年)
アブドゥッラフマーン・ハーン(1880年 - 1901年)
ハビーブッラー・ハーン(1901年 - 1919年)
ナスルッラー・ハーン(1919年)
アマーヌッラー・ハーン(1919年 - 1926年称号変更)
国王(シャー) バーラクザイ朝の系譜[10] Painda Khan
アマーヌッラー・シャー(1926年 - 1929年)
イナーヤトゥッラー・シャー(1929年)
ムハンマド・ナーディル・シャー(1929年 - 1933年)
ムハンマド・ザーヒル・シャー(1933年 - 1973年)
系図
数字はバーラクザイ朝の継承順。君主の代数の数え方には諸説あり、最後のザーヒル・シャーは9代目ともされる[3]。
Sultan Muhanmmad
ペシャワール太守 Fateh Khan Wazir
カーブル太守 ドースト・ムハンマド・ハーン 1,3 Zaman Shah Kohen Dil
カンダハル太守 Mir Dil
カンダハル太守 Rahim Dil