バーモント州
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なお、バーリントン都市圏の人口は225,562人(2020年国勢調査)を数え、ワイオミング州のシャイアン都市圏(2020年国勢調査時点での人口100,512人[3])やモンタナ州ビリングス都市圏(同、164,731人[3])よりも多く、州の総人口の約1/3を占める。

現在バーモント州になっている地域にはインディアンの主要2部族、アルゴンキン語族を話すアベナキ族とイロコイ族が住んでいた。フランスが植民地化初期にこの地域の領有主張していたが、七年戦争アメリカ大陸ではフレンチ・インディアン戦争)の終わった1763年に、フランスはイギリスに割譲した。そのころから近くの植民地であるニューハンプシャー植民地ニューヨーク植民地がその領有を争っていた。当時はニューハンプシャー認定地と呼ばれていた。これらの植民地から土地所有権を認められていた開拓者に対し、グリーン・マウンテン・ボーイズと呼ばれた民兵隊が対抗し、独立国であるバーモント共和国を創ることになった。この共和国はアメリカ独立戦争中の1777年に建国され、14年間続いた。13植民地以外では合衆国加盟以前に主権国家だった現在の4州の1つである[注 1]。1791年、13植民地以外の最初の州として14番目のアメリカ合衆国の州になった。独立国時代から奴隷制度を廃止しており、合衆国加盟時に奴隷制度を廃止した最初の州になった。

州内にグリーン山地があり、州の多くは、山岳と森林で占められ、愛称は「Green Mountain State」である。自動車のライセンスプレートも緑色である。名産であるメープルシロップの生産量は全米で最大である[4]
州名の由来

「バーモント」という州名の由来は不明だが、「緑の山地」を意味するフランス語 les Verts Monts から派生した可能性が強い[5]。トマス・ヤングが1777年の独立時にこの名前を導入した[6]。ニューハンプシャー州のホワイト山地やニューヨーク州のアディロンダック山地の方が標高が高いが、これらより森林が深いので名付けられたという説がある。また、雲母水晶緑泥石を含む緑みを帯びた変成頁岩である結晶片岩が多いのが理由であるとする説もある。
歴史主要記事:バーモント州の歴史

17世紀以来フランスカナダヌーベルフランス)に含まれていたが、フレンチ・インディアン戦争の結果、1763年英国に割譲された。当初はニューヨーク植民地ニューハンプシャー植民地によって分割支配され、1777年反英反乱が起り、独立共和国を宣言した。1791年14番目の州として合衆国に加入した。
先コロンブス期

紀元前8500年から7000年、この時期はシャンプレーン海があった時代であり、バーモントとなった地域ではインディアンが住み、狩猟を行っていた。紀元前8000年から1000年の古代、インディアンは年中回遊していた。紀元前1000年から西暦1600年のウッドランド期、村や交易のネットワークができ、土器の製造や弓矢の技術が発展した。バーモント西部では、モヒカン族やアベナキ族など少数のアルゴンキン語族が住んでいた。1500年から1600年のある時期に、イロコイ族が少数部族の多くを追い出し、後には狩猟場として使い、また残っていたアベナキ族と争っていた。1500年の人口は約1万人と推計されている。
植民地時代ウィンザーにあるオールド・コンスティチューション・ハウス、1777年7月8日にバーモント憲法が採択された。1775年ごろにグリーン・マウンテン・ボーイズ(英語版)が使っていた旗。

最初にバーモントを訪れたヨーロッパ人は、1535年のジャック・カルティエだと考えられている。1609年7月30日、フランス人探検家サミュエル・ド・シャンプランがバーモントをヌーベルフランスの領土だと主張した。1666年にはフランス人開拓者がラモット砦を建設し、バーモントでは初のヨーロッパ人開拓地となった。

1638年、セントローレンス川バレーを中心に激しい地震があり、ニューイングランドでも感じられた。これがバーモントで記録された最初の地震である[7]

1690年、ニューヨークのオールバニからオランダ・イギリス系開拓者が、現在のアディソンの西8マイル (13 km) のチムニーポイントに開拓地と交易拠点を設立した。

ダマー戦争の1724年、イギリス人による最初の恒久的な開拓地が造られ、近くのダマーストンやブラトルボロの開拓地を守るためにダマー砦が建設された。

1731年から1734年、フランスがセントフレデリック砦を建設し、シャンプレーン湖バレーにあるヌーベルフランスのフロンティア支配が可能になった。1754年、フレンチ・インディアン戦争が始まり、1755年には現在のニューヨーク州タイコンデロガにフランスはカリヨン砦の建設を始めた。1755年から1758年、イギリスはセントフレデリック砦やカリヨン砦の奪取に失敗した。1759年、ジェフリー・アマースト将軍の指揮下で、イギリス軍正規兵と植民地軍合計12,000名が、カリヨン砦を占領し、その後フランスはセントフレデリック砦を放棄した。アマーストはセントフレデリック砦廃墟の隣にクラウンポイント砦を建設し、地域のイギリスによる支配を確実にした。

フレンチ・インディアン戦争でフランスが敗北し、1763年のパリ条約によって、土地の支配権はイギリスに移った。イギリス王室によってアパラチア山脈より東は植民地開拓が制限され、バーモントはジョージ湖のウィリアム・ヘンリー砦から北東よりのメンフレマゴグまで対角線をギザギザに走る線で、ほぼ2分された。終戦により新しい開拓者がバーモントに入ってきた。マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ニューヨークの各植民地が全てこのフロンティアの領有を主張していた。

1764年3月20日、イギリス王ジョージ3世が、ニューハンプシャーとニューヨークの境界をコネチカット川の西岸、マサチューセッツの北、北緯45度線の南に定義した。ニューヨークがニューハンプシャー払い下げ地と呼ばれた土地の権利(ニューハンプシャー総督ベニング・ウェントワースが販売した所有権によって造られた町があった)の認証を拒み、不満を抱いた開拓者が反対運動を組織して、1777年1月5日の独立国バーモント共和国の設立に繋がっていった[8][9]。1770年、イーサン・アレン、その弟のアイラとリーバイ、セス・ワーナーが、グリーン・マウンテン・ボーイズ(英語版)と呼ばれた非公式の民兵隊を招集し、ニューヨークからの新しい移民に対抗し、もともとのニューハンプシャー出身開拓者の利益を守った。
独立モントピリアにある新古典主義建築のバーモント州会議事堂、ドームには金箔が貼られている。詳細は「バーモント共和国」を参照

1777年1月5日、ニューハンプシャー認定地の代表達が共和国の独立を宣言した[10]。初めの6か月間は「ニューコネチカット共和国」と呼ばれていた[11]

1777年6月2日、72人の代議員が出席した第2回会議の場で「バーモント」という名前を採用した。これはある友好的なペンシルベニア人の助言に基づいており、その人物は新生アメリカ合衆国の14番目の州として加盟する方法を手紙で伝えていた[11]。7月4日、ウィンザー酒場でバーモント憲法が起草され、7月8日には代議員によって採択された。これは北アメリカで文書化された最初期の憲法であり、疑いも無く最初に奴隷制度を廃止し、成人男性による普通選挙を規定し、公立学校の支援を求めていた。


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