バーブル
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1514年/15年にバーブルはカーブルに帰国し[51]、バーブルとサファヴィー朝との協力体制は解体した[48][52]。失敗に終わった1511年の遠征は、バーブルにとって最後のサマルカンド奪回の挑戦となった[53]

1514年8月のチャルディラーンの戦いでイスマーイール1世がオスマン帝国セリム1世に敗れた後、バーブルはサマルカンド回復が極めて困難だと考えるようになる[54][55]。また、チャルディラーンの戦いの経過の情報から着想を得て、バーブルは自軍にも銃火器を導入したと考えられている[51]
デリーへの入城パーニーパットの戦い

3度目のサマルカンドの奪回に失敗した後、バーブルはインドへの本格的な進出を考え始めるようになる[51][56][57]。当時のヒンドゥスターンにはアフガン系の貴族が割拠し、デリーを支配するローディー朝メーワールを中心とするラージプート連合軍と対峙していた[1]

1518年/19年にバーブルはパンジャーブ地方に入り、ビーラを占領した。祖先ティムールのパンジャーブ支配を根拠として、ローディー朝に対して同地の領有権を主張した[56]。パンジャーブ進入に先立つバジャウルの戦いでバーブルは火縄銃を使い、ユースフ・ザイ、ディラク・ザイなどの有力なアフガン系の部族から支持を受ける[53][注 1]。バーブルはインドに銃火器を用いた戦術を本格的に導入し、バーブルが生涯に収めた多くの戦勝をきっかけにインドに火薬と大砲が普及する[58]。バーブルがカーブルに戻った後、ビーラに置いた代官はパンジャーブの領主ダウラト・ハン・ローディーによって追放された。1520年/21年に再びインダス川を渡り、ビーラとシアールコートを占領したが、カンダハールで反乱が起きたためにアフガニスタンに戻らざるを得なくなる[59]。バーブルは領主シャー・ベク・アルグンが籠るカンダハールに包囲を敷き、1522年にカンダハールを陥落させてインド遠征の準備を整えた[60]

1521年にローディー朝の君主イブラーヒーム・ローディーと対立するダウラト・ハン・ローディーは、バーブルに支援を求めた[61]。また、メーワールの領主ラーナー・サンガー(ラーナー・サングラーム・シンハ)らラージプートの領主たちもバーブルに出陣を要請した[59][62]。インドの諸勢力から参戦を求められたバーブルは、従来の略奪目的の侵入とは異なる本格的な遠征を計画し、ローディー朝との対決を決意する[61]

1524年にダウラト・ハンの要請を受諾したバーブルはカーブルを発ち、パンジャーブの中心都市ラホールに向けての進軍を開始する。ラホールでダウラト・ハンの部隊がバーブルに合流するが、バーブルがダウラト・ハンにラホールを返還しようとしなかったため、ダウラト・ハンはバーブルと敵対する[60]。イブラーヒーム・ローディーとの交戦前にダウラト・ハンが軍勢を引き上げたため、バーブルはやむなくカーブルに帰還する[57]

1525年11月にバーブルは再びインド遠征に向かい、12月にインダス川を越えて息子フマーユーン、ガズニーの領主ホージャ・カランの部隊と合流する[63]。行軍中のバーブルに遭遇したダウラト・ハンは降伏し、バーブルは彼に許しを与えた[59]1526年4月にバーブルはパーニーパットを占領して陣地を築き、ローディー朝の攻撃に備えたが、同盟者であるラーナー・サンガーはパーニーパットに現れず、バーブルは単独でローディー朝と戦わなければならなかった[64]4月21日パーニーパットの戦いでバーブルは劣勢を跳ね返してローディー朝に勝利し、バーブルの元にイブラーヒームの首が届けられた。バーブルはチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝を破ったオスマン帝国の戦術を取り入れ、中翼の前面に連結した荷車を一列に展開し、荷車の後ろに銃火器を装備した兵士を配備した[65]。パーニーパットでの戦勝の理由については諸説あるがバーブルが火器を用いていたことは確実視されており[66]、火器の存在が重要な役割を果たしたと考えられている[67][68]。だが、バーブル自身は弓兵の活躍が戦勝に寄与したと考えていた[65]

4月24日にバーブルはデリーに入城し[69]、4月27日に金曜礼拝で自らの名を入れたフトバ(説教)を読み上げさせてインドの支配者となった意思を表明した[69][70]


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