カーブル征服後、バーブルは弟のジャハンギールにガズニー、ナーシルにニングナハール
を授与する[26]。バーブルは新たな拠点としたカーブルの統治に力を入れ、パシュトゥーン人(アフガン人)やハザーラ人などの町の周辺に居住する多種の民族に対して武力、懐柔策の両方を使って対応した[28]。また、バーブルはカーブルに10のバーグ(庭園)を建設し、宮殿の役割を果たす天幕を庭園に設置していた[29]。1505年1/2月にバーブルは略奪と戦利品の獲得を目的としてヒンドゥスターン(北インド)遠征を実施し、中央アジアと全く異なるインドの人間と自然に強い衝撃を受けた[30][31]。しかし、親族と家臣から反対を受けたために、インドでの本格的な征服事業を開始することはできなかった[32][33]。1505年6/7月にバーブルは遠征から帰還するが、その直後に母クトゥルク・ニガール・ハヌムが没する[34]。母の死後にバーブルの母方の義理の祖母であるシャー・ベギム、従兄弟にあたる歴史家のハイダル・ミールザーら母方の親族がバーブルを頼り、カーブルに滞在した。
1506年5月にバーブルはフサイン・バイカラのシャイバーニー攻撃の呼びかけに応じてヘラートに向かうが、フサインはバーブルと合流する前に没していた。10月にバーブルはフサインの跡を継いだバディー・ウッザマーンとムザッファル・フサインの兄弟とムルガブで合流し、歓迎を受けた[35]。フサインの死後もティムール朝の連合軍はシャイバーニーに包囲されたバルフに向けて行軍を続けたが、連合軍の到着前にバルフは陥落した。シャイバーニーはティムール朝との決戦を避けてマー・ワラー・アンナフルに退却したが、追撃は行われず、連合軍は解散した[36]。
遠征に参加した王子たちはそれぞれの領地に戻り、バーブルにカーブルに帰還しようとしたが、周囲の勧めによってヘラートを訪れた[35]。ヘラートを訪れたバーブルは宴席に参加し、市内外の多くの名所を観光した。『バーブル・ナーマ』にはヘラートの美麗な景観、町に多くの優れた人材が集まる様子が記録されている[37]。バーブルはヘラートでの越冬を勧められたが、12月末にヘラートを発ってカーブルに帰国の途に就いた。
帰国する一行は移動距離が短い山道を進んだが、道中で吹雪と強風に見舞われる。バーブルは部下とともに雪をかき分けて道を作る作業に参加し、狭い洞窟の外で夜を明かして部下と苦労を分かち合った[38]。後年にバーブルは一週間近くにわたる雪中の行軍を回顧して「生涯でほとんどなめたことのない苦しみ」と述べている[39]。1507年2月にバーミヤーン西の町ヤカ・オウランに到着したが、間も無くカーブルで反乱が起きた報告に接する[40]。カーブルでは、シャー・ベギムが実の孫であるミールザー・ハンをカーブルの支配者とするために町の内城を包囲しており、カーブルに着いたバーブルは短時間で反乱を鎮圧した。反乱を鎮圧したバーブルは、シャー・ベギムを初めとする反乱者に対して寛大な態度を示した[41]。ミールザー・ハンと彼に協力したムハンマド・フサイン・ドゥグラトをホラーサーンに追放し、シャー・ベギムに処罰は下さなかったが、彼女はバダフシャーンに移住した。
1507年6月にヘラートはシャイバーニー朝によって征服される。 1508年からバーブルはパーディシャー(パードシャー、「皇帝」の意)の称号を用いる[42]。ヒンドゥスターン遠征後に征服地から租税が送られてくるようになり、おそらくバーブルは権威と威風による支配の有効性に気づいた[43]。パーディシャーを称した後、バーブルは部下や使節などに衣服を下賜することが多くなった[43]。1508年3月に長男フマーユーンが誕生し、翌1509年に次男カームラーンが誕生する。 1510年にシャイバーニーがサファヴィー朝のイスマーイール1世との戦いで敗死した後、1511年にバーブルは再び中央アジア遠征を実施する。バーブルはクリャブ
サマルカンド奪還の失敗