バーブル
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バーブルがローディー朝、ラージプートに対して収めた一連の勝利は、ヒンドゥスターンの勢力図を一変させた[58]
晩年カーブルの庭園に建てられたバーブルの廟

1529年秋にフマーユーンが任地のバダフシャーンを離れてインドに移動し、バーブルはフマーユーンに東方への遠征を命じた。1530年春頃、重病に罹ったフマーユーンが遠征先からアーグラに移送される[94]。バーブルはフマーユーンの回復を祈祷して自らの命を奉げる儀式を行い、フマーユーンの病状は回復したと伝えられている[2][95][96][97][98]。フマーユーンが回復して間もなく、1530年12月26日にバーブルはアーグラで崩御した[2][99]

バーブルの在位期間は短く、国家の基盤は整備されないまま、フマーユーンが王位を継承した[100][101]。フマーユーンは側近の助言に従ってバーブルの崩御を秘匿し、バーブルはメッカ巡礼に旅立ち、フマーユーンに譲位した噂が流された[2]。バーブルは自分の身体をカーブルに葬るよう遺言したが、遺体はヤムナー河岸のラーム・バーグ庭園に埋葬された[102]。後にスール朝シェール・シャーによって遺体はカーブルに移され、1607年にカーブルを訪れたバーブルの曾孫ジャハーンギールは、バーブルが葬られている庭園に石碑を建立した[102]。生前の希望に従って墓石を囲む廟は建てられなかったが、後年に簡素な屋根付の建物が墓石の上に置かれた[99]
文芸活動

バーブルは母語であるチャガタイ・トルコ語以外に、ペルシア語アラビア語にも精通していた[103][104]。詩人でもあるバーブルは韻律論について深い知識を持ち、ナヴァーイーが著した韻律学の書物に批判を加えた[105]。回想録『バーブル・ナーマ』(『ワカーイー』)に自己の心情を率直に表現し、簡潔かつ的確な文章、人物批評、文の中に時折現れるユーモアは読者を惹きつけている[106]

1504年のカーブル征服の直後、バーブル文字と呼ばれるアラビア文字を基にした新しい文字を発明した[107]。バーブルは自分の子供たちに新しい文字で書いた文を送り、新しい文字で書いたコーラン(クルアーン)をメッカに寄贈したといわれている[108]。しかし、バーブル文字は一般には普及せず、孫のアクバルの時代になると文字を知る者はほとんどおらず、やがて使われなくなった[109]
人物像乗馬競技中に落馬して心配されているバーブル

バーブルはスンナ派を信仰していたが狂信的な人物ではなく、統治者として公正と寛容を心掛けていた[95][104]。1日の5回の礼拝と礼拝後の沐浴を欠かさず、沐浴のために凍結した用水路に身を浸したこともあった[91]。また、ティムール朝の多くの王族と同様にスーフィー(聖者)に敬意を示していた[110]。部下が罪を犯した場合には、彼らが反抗的な態度を示さない限り、極力罪を許そうとした[104]。多くのモンゴル人を配下に持っていたにもかかわらず、バーブルはモンゴル人を蔑視していた[111]。そして、モンゴルと呼ばれることを嫌悪し[111][70]、ティムールの子孫であることを強調した[70]

若年時のバーブルは禁欲的な生活を送っていたが、1506年にヘラートで開かれた宴席で初めてワインを飲んだ[112][113]。ヘラートでの体験以後バーブルは多量の酒を飲むようになり[114]、『バーブル・ナーマ』に宴会や酒にまつわる回想を多く書いた[115]。バーブルはワインを好んで飲み、一度だけ飲んだビールについては不味いという感想を残している[116]。1527年のラージプートとの戦いに際してバーブルは禁酒の誓いを立てたが、日記に禁酒の苦しみを書き表した[115]。果物に強いこだわりを持つ美食家でもあり、特にメロンを好んだ[117]

バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した[118]。また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した[95][119]


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