16世紀初頭に中央アジアからインドに移り、ムガル帝国を建国した。名前の「バーブル」はトラを意味する[3][4]。バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫であり、母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスはチンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。
軍事力に優れた指導者、優れた文人として評価されている[1][5]。自らの半生を著述した回想録『バーブル・ナーマ』は文学性・史料的価値を高く評価されており、多くの言語に翻訳された[6]。 バーブルの生涯は中央アジア時代、カーブル時代、インド時代の三期に分けられる[7][8]。 1483年にフェルガナ地方のアンディジャンで、バーブルはフェルガナの領主ウマル・シャイフの長子として生まれる[7][8]。バーブルが誕生した当時のティムール朝は2つの政権に分裂しており、バーブルの一家は祖父のアブー・サイードが樹立したサマルカンドの政権に属していた[9]。 1494年に父のウマル・シャイフが城内の鳩小屋が倒壊する事故に巻き込まれて急死した後、バーブルは家長の地位とフェルガナを継いだ[10]。バーブルの父方の伯父であるサマルカンドの君主スルターン・アフマドと、母方の叔父であるモグーリスタン・ハン国の君主マフムード・ハンはウマル・シャイフの死を知ると、バーブルが継いだ領地を獲得するためにフェルガナに侵攻した。バーブルは祖母のエセン・ダウラト・ベグムと臣下の補佐を受けて、叔父たちの攻撃に打ち勝つ[11]。叔父たちの攻撃を撃退した後、アンディジャンで父の葬儀を執り行った。 1495年に従兄弟のバイスングル 1年半から2年近くの期間、本拠地を失ったバーブルはホジェンドを拠点としてアンディジャン、サマルカンドに出兵するが事態は進展せず、1499年夏に支持者の手引きによってようやくアンディジャンに入城することができた[15]。アンディジャン奪還後も、バーブルの弟ジャハンギールを擁立するタンバルとの争いは続いた[16]。1500年2月にタンバルと休戦協定を締結するが、バーブルの陣営ではタンバルの派閥に属するベグ(司令官)が権勢をふるっていた[17]。 一方、スルターン・アリーの占領下に置かれたサマルカンドはシャイバーニーから圧力を加えられており、1500年にスルターン・アリーはシャイバーニーとの和平を図って、シャイバーニーにサマルカンドを明け渡した[14]。バーブルはサマルカンド陥落に先立つ1500年5/6月にサマルカンドの廷臣の招聘に応じて進軍しており、サマルカンドがシャイバーニーの占領下に置かれた後も町の近郊に留まって奪還の機会をうかがっていた。こうした状況下で、サマルカンド内で強い影響力を持つウラマー(神学者)のホジャ・アブリメカリムは、バーブルにサマルカンド開城を手引きする書状を送った。夜間に70-80人のバーブルの部下がサマルカンド城内に侵入して城門を開け、城外に陣取っていたシャイバーニーは形勢が不利だと考えて退却したバーブルはアブルメカリムらサマルカンドの有力者や高官に迎え入れられ、王に擁立された[18]。
生涯
少年期
サマルカンドの占領、故郷の喪失