バーブル
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1505年1/2月にバーブルは略奪と戦利品の獲得を目的としてヒンドゥスターン(北インド)遠征を実施し、中央アジアと全く異なるインドの人間と自然に強い衝撃を受けた[30][31]。しかし、親族と家臣から反対を受けたために、インドでの本格的な征服事業を開始することはできなかった[32][33]。1505年6/7月にバーブルは遠征から帰還するが、その直後に母クトゥルク・ニガール・ハヌムが没する[34]。母の死後にバーブルの母方の義理の祖母であるシャー・ベギム、従兄弟にあたる歴史家のハイダル・ミールザーら母方の親族がバーブルを頼り、カーブルに滞在した。

1506年5月にバーブルはフサイン・バイカラのシャイバーニー攻撃の呼びかけに応じてヘラートに向かうが、フサインはバーブルと合流する前に没していた。10月にバーブルはフサインの跡を継いだバディー・ウッザマーンムザッファル・フサインの兄弟とムルガブで合流し、歓迎を受けた[35]。フサインの死後もティムール朝の連合軍はシャイバーニーに包囲されたバルフに向けて行軍を続けたが、連合軍の到着前にバルフは陥落した。シャイバーニーはティムール朝との決戦を避けてマー・ワラー・アンナフルに退却したが、追撃は行われず、連合軍は解散した[36]

遠征に参加した王子たちはそれぞれの領地に戻り、バーブルにカーブルに帰還しようとしたが、周囲の勧めによってヘラートを訪れた[35]。ヘラートを訪れたバーブルは宴席に参加し、市内外の多くの名所を観光した。『バーブル・ナーマ』にはヘラートの美麗な景観、町に多くの優れた人材が集まる様子が記録されている[37]。バーブルはヘラートでの越冬を勧められたが、12月末にヘラートを発ってカーブルに帰国の途に就いた。

帰国する一行は移動距離が短い山道を進んだが、道中で吹雪と強風に見舞われる。バーブルは部下とともに雪をかき分けて道を作る作業に参加し、狭い洞窟の外で夜を明かして部下と苦労を分かち合った[38]。後年にバーブルは一週間近くにわたる雪中の行軍を回顧して「生涯でほとんどなめたことのない苦しみ」と述べている[39]。1507年2月にバーミヤーン西の町ヤカ・オウランに到着したが、間も無くカーブルで反乱が起きた報告に接する[40]。カーブルでは、シャー・ベギムが実の孫であるミールザー・ハンをカーブルの支配者とするために町の内城を包囲しており、カーブルに着いたバーブルは短時間で反乱を鎮圧した。反乱を鎮圧したバーブルは、シャー・ベギムを初めとする反乱者に対して寛大な態度を示した[41]。ミールザー・ハンと彼に協力したムハンマド・フサイン・ドゥグラトをホラーサーンに追放し、シャー・ベギムに処罰は下さなかったが、彼女はバダフシャーンに移住した。

1507年6月にヘラートはシャイバーニー朝によって征服される。
サマルカンド奪還の失敗

1508年からバーブルはパーディシャー(パードシャー、「皇帝」の意)の称号を用いる[42]。ヒンドゥスターン遠征後に征服地から租税が送られてくるようになり、おそらくバーブルは権威と威風による支配の有効性に気づいた[43]。パーディシャーを称した後、バーブルは部下や使節などに衣服を下賜することが多くなった[43]。1508年3月に長男フマーユーンが誕生し、翌1509年に次男カームラーンが誕生する。

1510年にシャイバーニーがサファヴィー朝イスマーイール1世との戦いで敗死した後、1511年にバーブルは再び中央アジア遠征を実施する。バーブルはクリャブ、クンドゥーズ、バダフシャーンを奪回したが、独力での勝利は不可能だと考えていた[44]。1511年初頭にイスマーイール1世はクンドゥーズに到達したバーブルにシャイバーニーの元に嫁いでいたハンザーダ・ベギムを送り返し、友好的な書簡を送り届けた[45]。ハンザーダは10年ぶりに再会したバーブルが誰なのか分からず、しばらくしてようやく自分の弟だと理解した[46]。バーブルはイスマーイール1世の元に使者を派遣し、サファヴィー朝への臣従と引き換えに援助を要請した[47]。サファヴィー朝の援軍を加えたバーブルはブハラを奪回し、10月にサマルカンドに3度目の入城を果たすが、サマルカンドに入城したバーブルはイスマーイール1世を崇拝するクズルバシュと同じようにシーア派の服装を纏っていた[47]スンナ派を信奉するサマルカンドの多くの住民はシーア派に属するイスマーイール1世に抵抗を示し、バーブルはサマルカンドを保持することはできなかった[47][48][49]

1512年にシャイバーニーの甥ウバイドゥッラーブハラ奪還を目指して中央アジアに進軍し、同年4月28日にバーブルとウバイドゥッラーはクリ・マリク湖で衝突する。戦力面ではバーブルの軍が優位に立っていたが、戦闘はバーブルの惨敗に終わる[48]。11月に起きたブハラ近郊のグジュドワーン付近での戦闘でもバーブルは敗れ、サマルカンドを失ったバーブルはアフガニスタン北部に留まって反撃の機会を待ったが、事態は好転しなかった[50]1514年/15年にバーブルはカーブルに帰国し[51]、バーブルとサファヴィー朝との協力体制は解体した[48][52]。失敗に終わった1511年の遠征は、バーブルにとって最後のサマルカンド奪回の挑戦となった[53]


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