バーバラ・リー
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リーはアフリカ系アメリカ人であり、遺伝子診断によると、ギニアビサウシエラレオネ出身者の子孫である[5][6]カトリック教徒として育ち、ロレット修道女会(英語版)の教会学校に通った[7][8]。エルパソのガールスカウトで唯一のアフリカ系アメリカ人であり、幼少期に人種差別に苦しんだと回想している[9]

両親は1955年に離婚した[10]。リーは2人の妹とともに母親に引き取られ、1960年にカリフォルニア州に移り住んだ。ロサンゼルス、パコイマ地区のサンフェルナンド高校に入学し、全米黒人地位向上協会(NAACP)の協力を受けて、同校で初めてアフリカ系アメリカ人のチアリーダーとなった。1964年に高校を卒業した[11][12]。15歳のとき、当時アメリカ国内では人工妊娠中絶が禁止されていたため、メキシコシウダー・フアレスで妊娠中絶の闇手術(英語版)を受けた[13]

アメリカ空軍所属のカール・リー(Carl Lee)と結婚し、高校卒業後、夫とともにイギリスに渡った。カールとの間に2人の子供をもうけたが、リーが20歳のときに離婚した[14][15]。リーはこの結婚は悲惨なものだったと後に語っている。離婚後、リーはホームレスになった[16]

その後、サンフランシスコ・ベイエリアに移り、ノースイースタン大学ミルズカレッジ(英語版)に入学した。大学では黒人学生組合の会長を務め、1973年に心理学の学士号を取得して卒業した[17]。その後、カリフォルニア大学バークレー校に入学し、1975年にソーシャルワークの修士号(英語版)を取得して卒業した[18]公的扶助フードスタンプを利用し2人の子供を育てながらの学生生活であり、しばしば子供を連れて授業に出席していた[19]
政界における初期のキャリア

リーはグレンデール福祉協議会に勤め、後にカリフォルニア州労働統計局に統計事務員として勤務した[14][20]

ミルズカレッジ黒人学生組合会長を務めていたとき、アフリカ系アメリカ人女性初の連邦議会下院議員であるシャーリー・チザムを大学に招いて講演をしてもらったことがあった。これをきっかけに、リーは1972年の大統領選挙でチザムの選挙運動に参加し、1972年の民主党全国大会(英語版)ではチザム陣営を代表して演説した[21]。リーは後に、チザムは自身が政治に参加するきっかけをくれたメンターだったと語っている[22]

また、リーは学生時代、ブラックパンサー党オークランド支部のコミュニティ学習センターでボランティアをし[23]、ブラックパンサー党共同創設者ボビー・シールの1973年のオークランド市長選挙運動に関わっていた[24]。その関係から、リーはFBIの監視を受けていた[15]


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