バーティ・アハーン
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ホーヒーがコリーとの決戦に勝利したことで、アハーンは首相府担当国務大臣補佐に任命された。

1980年、首相府担当国務大臣であるショーン・ムーアの持病により、事実上アハーンが首相府担当国務大臣職を務めるようになっていった。1981年から1982年にかけての3回の総選挙でアハーンは個人得票を増やしていき、同じ選挙区から立候補したかつての首相候補であるコリーの得票数すらも上回った[14]。短命に終わった1982年の共和党政権でアハーンは首相府担当国務大臣を務めた。共和党はその後5年間を野党として過ごすこととなり、この期間にアハーンはドイルの労働委員会委員を務め、また1986年にはダブリン市長となった。
閣僚経験
労働相

1987年、共和党は少数与党でありながらも政権を奪還した。アハーンは労働相に就任したものの、労働相は当初あまり重要な役職と考えられていなかった。しかしながらその後数年間において、労働省はアイルランドの下降する経済を刺激する点において重要な役割を担うようになっていった[15]。政府を代表して、アハーンは労使間の間で賃金の合意について協議した。この協議と以後の賃金交渉の合意は「アイリッシュ・モデル」と呼ばれるようになり、多くのヨーロッパ諸国でも採り入れられていった[16]

1989年、ホーヒーは総選挙を前倒しして実施した。共和党は議席を失い、進歩民主党との連立政権樹立を余儀なくされた[17]。アハーンは引き続き労働相として閣内にとどまった。

1990年、アハーンは大統領選挙で同輩閣僚のブライアン・パトリック・レニハン陣営の選挙運動を指揮することとなった[18]。ところが圧倒的に有利であるはずのレニハンが無所属候補のメアリー・ロビンソンに敗北したことで選挙運動の責任者であるアハーンの失態が目立つ結果となり、アハーンは大きな打撃を受けた。

1991年、共和党と進歩民主党の政権協定が見直された。アハーンはこの協議でふたたび重要な役割を果たした。政権維持の望みが揺らいだところでアハーンは両党間の亀裂を埋め、連立は軌道に戻った。この一連の協議の結果に対してホーヒーはアハーンを「協議に参加した中でもっとも熟練し、もっとも腹黒く、もっとも狡猾だ」と評した[13]
財務相

1991年11月、当時財務相であったアルバート・レイノルズが党首選挙に立候補し、ホーヒーに挑んだ。このときアハーンはホーヒー支持を表明していた。レイノルズは敗れ、自身とその支持派は内閣を追われた。内閣改造でアハーンは財務相に就任した。
レイノルズ政権

1992年初頭、ホーヒーは首相と党首を辞任した。アハーンはホーヒーらに、その後任に名乗りを挙げるよう促された。ところがアハーンは慎重な姿勢を持ち、党首選挙への立候補を見送った。これによりレイノルズが党首、そして首相に就任した。このときアハーンはレイノルズとの間で、自らが引く代わりにレイノルズ政権での閣僚に残すという内容の取り決めがあったとされている。前政権での主要閣僚のうちたアハーンとマイケル・ウッズの2人だけがレイノルズ政権に残り、アハーンは引き続き財務相を務めることとなった。

1992年の総選挙を受けて、共和党は労働党と連立政権を発足させることになった。ところがこの政権は、高等裁判所人事に関するレイノルズ案に対して労働党が反発し、連立を離脱したことによって終焉した。アハーンは労働党党首のディック・スプリングが務めていた副首相を引き継いだものの、その後まもなく政権は崩壊し、レイノルズは首相と党首を辞任した。

1993年、当時アハーンは財務相に在任していたが、このとき複数の企業から合計39,000アイルランド・ポンドを受け取っていた。この収入については2006年まで明るみに出ることがなかった[19]
共和党党首

1994年11月19日、アハーンはレイノルズの後を受けて共和党第6代党首となった。このとき1959年のショーン・レマスのとき以来となる、無投票での党首選出であった。

党首就任からまもなくアハーンは労働党の政権残留協議を開始した。このとき連立維持、アハーンの首相就任が見込まれていたが、あらたな対立が生じたことで労働党は連立を離脱し、アハーンは野党党首となった。

1997年の総選挙で共和党はアハーンの人気に頼った運動を展開した。共和党は議席を増やし、4人の無所属議員の支持を得ながら進歩民主党との連立を組んだ。1997年6月26日、アハーンは45歳という史上最年少でアイルランド首相に就任した。
首相在任(1997年 - 2002年)
当初の懸案事項

アハーンの第1次政権の最初の6か月は課題が積まれていた。まず、アハーンはデイヴィッド・アンドリューズを国防相兼外務政務次官に指名しようとした。ところが、このような閣僚と下位の役職とを兼務させることは憲法に反するため、アハーンは再検討を迫られた。

次に、首相就任の翌月となる7月に、ホーヒーが小売業のダンズ・ストア創業者であるベン・ダンから130万アイルランド・ポンド相当の物品を受け取っていたことについて審理するマクラケン法廷に、かつては否定していたものの、自ら証拠を提出するということがあった。しかしながらこの件では政権よりもホーヒー個人の評価のほうへの打撃が大きかった。

そしてアハーン政権で外相となっていたレイ・バークの疑惑が再び浮上した。バークは30,000アイルランド・ポンドの賄賂を受け取っていたことを認めて辞任を余儀なくされた。この2件に対して政府はモリアーティ法廷とフラッド法廷を設置した。就任6か月で最も高く評価されたのは IRA暫定派の休戦が再開したことであり、これで北アイルランドとの協議再開への道が開けた。
和平プロセス

アハーンの1期目における大きな功績としてベルファスト合意、あるいは「聖金曜日合意」への協議を開始したことが挙げられ、この協議でイギリス、アイルランド両国政府と北アイルランドのほとんどの政党が、北アイルランドの権力分担に向けた「もっぱら平和的かつ民主的な (exclusively peaceful and democratic)」枠組みを設置することとなった。ベルファスト合意は1998年4月10日に調印された。ベルファスト合意は各政党だけでなく、イギリス、アイルランド両国政府とアイルランド共和国および北アイルランドの市民にも支持された。

合意と、合意によってなされた休戦と政治構造により和平が進められた。この協議を通じてアハーンはイギリス首相トニー・ブレアとの関係を強めていった。1998年11月26日、ブレアはイギリスの首相として初めてドイルで演説した。また2003年9月24日には、アハーンとブレアは聖金曜日合意によってイギリスと北アイルランドに平和をもたらしたことに対してともにトーマス・J・ドッド国際正義人権賞を受賞した[20]。2008年5月22日、アハーンとブレアは和平プロセスにおける功績が認められ、クイーンズ大学ベルファストの名誉博士号を受けた。総長のジョージ・ミッチェルはアハーンを「平和をもたらし、橋を架けた人物 a man of peace and a builder of bridges」と称えた[21]
経済

アハーンの首相在任中はアイルランドの高度経済成長期、いわゆる「ケルトの虎」と重なる。繁栄と生活水準の向上はケルトの虎がもたらした成果であった。他方で公共医療や運輸部門における社会基盤を整備していったことで赤字が増大していった[22]
2002年総選挙

史上第2位となる長さとなった第28期ドイルは任期満了を迎えた。共和党と進歩民主党による連立は、5月17日の総選挙で過半数を得たことで引き続き政権を担うこととなった。共和党は単独での過半数獲得を目指したが、目標の84議席に3議席届かなかった。連立政権はドイルにおいて、共和党と8人の進歩民主党所属議員で構成されることとなった。政権が選挙で再任されたのは、1969年のジャック・リンチ政権以来となった。このとき野党のフィナ・ゲールは議席を大幅に減らした。
首相在任(2002年 - 2007年)左からアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュイギリス首相トニー・ブレア、アハーン(2003年4月8日、北アイルランドのヒルズボラ城にて)

2002年の総選挙からまもなくして、世界経済やアイルランド国内の経済が減速したことにより財政支出の削減が発表されたが、これは議論を呼び起こした。選挙期間中に財務相チャーリー・マクリーヴィが「歳出削減など考えていない」と発言していたため、財政支出の削減は公約に反するものとなった。政権は世論から、とくにイラク戦争関連でも、発言と行動の不一致について批判を受けた。政権に対する世論調査での支持率は大きく落ち込み、アハーン人気も最低水準にまで落ち込んだ。

2003年には、イラク戦争に対する国内の反発があったにもかかわらず、多数の部隊を載せたアメリカ軍の輸送機がシャノン空港で燃料供給を受けていたことが発覚し、政府はこの論議に追われることとなった。アイルランドは国家樹立以来の国是として、あらゆる紛争において中立を維持することを掲げてきた。当初政府はアメリカ軍部隊がシャノン空港を使用していないとしてきたが、これが事実と異なっていることが発覚すると、政府はアメリカ軍に対してシャノン空港の使用を50年間認めていると主張した。

世論調査でのアハーンに対する支持率が低下し、また2004年の地方選挙では、共和党は過去80年間で最悪の結果となった。それでもなお首相・党首交代が起こることはなく、アハーンはその後の世論調査で支持率を回復させていった。2004年にアハーンは予想に反して内閣改造を実施したものの、アハーンを脅かす存在として最有力候補と見られたシェイマス・ブレナンを閣僚から降ろすことができなかった。この内閣改造は一部からの期待に反して、新たに内閣に加わったのが3人にとどまるほどの小規模なものであった。

政権が優先する事項を変更し、また経済成長が続いたこともあって、アハーンに対する人気の落ち込みは短期間で終わった。アハーン政権では2004年3月に職場や公共の屋内における喫煙の禁止を定めた法律を施行している。また交通機関でも、ダブリンのライトレールルアス」の開業、高速自動車道の新設、国有の空港運営企業エアリアンタの解体といったことがあった。2005年の聖パトリックの祝日の祝賀行事で、ブッシュにシャムロックの鉢を贈るアハーン

2004年11月、アハーンは共和党党首就任から10周年を迎えた。


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