イギリスと独立戦争をした13州のうちの一つである[4][5]。南北戦争では南部連合側に属し[5]、激戦地となった。
州都はリッチモンド市[3][4][5][6]、人口最大都市はバージニアビーチ市である[4]。
家庭で話される言語(バージニア州) 2010
英語 85.87%
スペイン語 6.41%
人種構成(バージニア州) 2010
白人 64.8%
黒人 19.4%
ヒスパニック 7.9%
アジア系 5.5%
インディアン 0.4%
混血 2.9%
歴史詳細は「バージニア州の歴史」を参照ポカホンタス、バージニア初期家系の多くで先祖とされるインディアンの女性、後生には様々に脚色されて語り継がれた
ジェームズタウン2007年は、ジェームズタウン植民地設立、すなわちバージニアの始まりから400周年を祝った催しだった。この行事では、バージニアの歴史を形作る際に少なからぬ役割を果たしたインディアン、ヨーロッパ人、アフリカ人の貢献に焦点を当てた[8][9]。これらの人々を巻き込む戦争も常に重要だった。フレンチ・インディアン戦争、アメリカ独立戦争、南北戦争から冷戦、テロとの戦いまで、バージニアが舞台になってきた[10] 。歴史上の人物、例えばポカホンタスとジョン・スミス、ジョージ・ワシントンの子供時代などの話や、南北戦争前の奴隷社会におけるプランテーション特権階級を取り巻く話も州の歴史に神話を作り、州のイデオロギーに理論的解釈を与えている[11]。
植民地時代詳細は「バージニア植民地」を参照
バージニアとなった地域に最初の人類が到着したのは、12,000年以上前と推計されている[12]。5,000年前までに長期的な集落が現れ、西暦900年には農耕が始まっていた。1500年までに、アルゴンキン語族が海岸地域にウェロウォコモコのような町を設立し、「ツェナコマカ」と呼んでいた。他にも西部にはスー語族の人々、北部と南部にはノットウェイ族やメヘリン族などイロコイ語族の人々が住んでいた。1570年以後、アルゴンキン語族は、その交易網に対する他の部族からの脅威に対抗するために、ポウハタン酋長の下に統合された[13]。ポウハタンは小さな部族30以上、集落では150以上を支配下に置き、共通のバージニア・アルゴンキン語を話していた。1607年、海岸地域の人口は13,000人から14,000人になっていた[14]。
16世紀にスペインのイエズス会などヨーロッパ人遠征隊が幾つか、チェサピーク湾を探検していた。1583年、イングランド女王エリザベス1世が、スペイン領フロリダより北の地域に植民地を建設する権利をウォルター・ローリーに与えた[15]。1584年、ローリーは北アメリカの大西洋岸に遠征隊を派遣した[16]。「バージニア」という名前は「バージン・クイーン」(生涯結婚しなかったエリザベス1世の渾名)に因んでローリーあるいはエリザベス1世が提案した可能性があり、またインディアンの言葉で Wingandacoa あるいは名詞 Wingina に関係づける説もある[17]。当初この名前はサウスカロライナからメインまで、さらにバミューダ諸島を含む海岸地域全体を指して使われた[18]。この地域の土地に対する権利を認めた1606年憲章により、その領主達が合資会社としてロンドン会社を法人化した。この会社が新世界では初のイングランドによる恒久的開拓地、ジェームズタウンに出資した。