バージニアとなった地域に最初の人類が到着したのは、12,000年以上前と推計されている[12]。5,000年前までに長期的な集落が現れ、西暦900年には農耕が始まっていた。1500年までに、アルゴンキン語族が海岸地域にウェロウォコモコのような町を設立し、「ツェナコマカ」と呼んでいた。他にも西部にはスー語族の人々、北部と南部にはノットウェイ族やメヘリン族などイロコイ語族の人々が住んでいた。1570年以後、アルゴンキン語族は、その交易網に対する他の部族からの脅威に対抗するために、ポウハタン酋長の下に統合された[13]。ポウハタンは小さな部族30以上、集落では150以上を支配下に置き、共通のバージニア・アルゴンキン語を話していた。1607年、海岸地域の人口は13,000人から14,000人になっていた[14]。
16世紀にスペインのイエズス会などヨーロッパ人遠征隊が幾つか、チェサピーク湾を探検していた。1583年、イングランド女王エリザベス1世が、スペイン領フロリダより北の地域に植民地を建設する権利をウォルター・ローリーに与えた[15]。1584年、ローリーは北アメリカの大西洋岸に遠征隊を派遣した[16]。「バージニア」という名前は「バージン・クイーン」(生涯結婚しなかったエリザベス1世の渾名)に因んでローリーあるいはエリザベス1世が提案した可能性があり、またインディアンの言葉で Wingandacoa あるいは名詞 Wingina に関係づける説もある[17]。当初この名前はサウスカロライナからメインまで、さらにバミューダ諸島を含む海岸地域全体を指して使われた[18]。この地域の土地に対する権利を認めた1606年憲章により、その領主達が合資会社としてロンドン会社を法人化した。この会社が新世界では初のイングランドによる恒久的開拓地、ジェームズタウンに出資した。イングランド王ジェームズ1世に因むこの開拓地は、1607年5月にクリストファー・ニューポートが設立した[19]。1619年、開拓者はハウス・オブ・バージェシーズと呼ぶ選挙で選ぶ議員の議会を設立して、地域の支配権を強めた。1624年にロンドン会社が破産すると、イギリス王室領としてイギリス王の支配下に入った[20]。ウィリアムズバーグ、1699年から1780年までバージニア植民地の首都だった
植民地初期の生活は危険なものであり、1609年の「飢えの時(英語版)」や、1622年のインディアンによる虐殺を含むアングロ・ポウハタン戦争などで多くの者が命を落とした。インディアンによる虐殺によって植民地人のインディアン全てに対する否定的な見方が生まれた[21][22]。初期の開拓者6,000人のうち、1624年まで生き残ったのは3,400人に過ぎなかった[23]。しかし、ヨーロッパでタバコに対する需要があったことから、さらに多くの開拓者とその従僕が到着することになった[24]。労働力不足を補うために、バージニアまで運んだ年季奉公者のそれぞれについても、開拓者に土地を与えた[25]。アフリカ人労働者が初めて輸入されたのが1619年であり、従僕のジョン・ケーサーに関する1654年の訴訟があった後、奴隷制度が法制化された[26]。
労働者階級と支配階級の間に緊張関係が生まれ、また地理的な差があったことから1676年のベイコンの反乱に繋がった。このときまでに過去の者を含めて年季奉公者人口は全体の80%になっていた[27]。大半は植民地のフロンティアから起きた反乱は、インディアンに対する懐柔的な政策にも反対した。植民地人は力と条約でインディアンの土地を取り上げていった。1677年条約などは調印した部族を属国化するものだった。