1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ジョージ・ワシントンが大陸軍の指揮官に選出された。戦中に、海岸にあるウィリアムズバーグの位置が、イギリス軍による攻撃を受けやすいことを怖れたジェファーソンの進言で、首都がリッチモンドに移された[35]。1781年、大陸軍とフランス陸海軍の共同作戦で、イギリス軍をバージニア半島に閉じこめた。ヨークタウンの包囲戦ではジョージ・ワシントンとフランス軍ロシャンボー伯爵の軍隊が、イギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の軍隊を破った。1781年10月19日にコーンウォリスが降伏したことで、パリ和平会議に繋がり、植民地の独立を確かなものにした[36]。
アメリカ合衆国憲法の起草でもバージニア人が中心になった。1787年にジェームズ・マディソンがバージニア・プランを起草し、1780年には権利章典を書いた[34]。バージニアは1788年6月25日にアメリカ合衆国憲法を批准し、合衆国10番目の州になった。当時奴隷人口が多かったバージニア州は、憲法に盛り込まれた5分の3妥協案により、アメリカ合衆国下院でも最大の議員団を誇った。バージニア州出身のアメリカ合衆国大統領が続いたことで、バージニア朝とも呼ばれ、国内でその重要性を維持した。1790年、バージニア州とメリーランド州が連邦政府に土地を譲渡して、新しい連邦の首都コロンビア地区を形成した。ただし、バージニア州が譲った土地は1846年に返還された[37]。バージニア州は「州の母」とも呼ばれる。1792年にバージニア州から分かれたケンタッキーが州に昇格するなど、幾つかの州が生まれ、またバージニア州生まれの多くの者が西部の開拓者となったからである[38]。
南北戦争とその後詳細は「南北戦争」を参照フレデリックスバーグのメアリーズハイツ前で休息する北軍兵、1863年5月
奴隷労働力は農業の他にも鉱業や造船業などで利用が高まっていった[39]。1831年のナット・ターナーによる奴隷反乱や、1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃は、奴隷制度とプランテーション経済におけるその役割について、深い社会的不満があることを示した。1860年時点で、バージニア州人口のおよそ31%、約50万人が奴隷だった[40]。奴隷制度に関する考え方の違いが南北戦争開戦に繋がった。
サムター要塞の戦いと、エイブラハム・リンカーンによる徴兵要求に続く1861年4月17日、バージニア州はアメリカ合衆国からの脱退を票決した。4月24日にはアメリカ連合国に加盟し、リッチモンドがその首都に選ばれた[38]。1863年に行われたホイーリング会議の後、州北西部の48郡がアメリカ合衆国に留まる道を選択し、バージニア州から分離してウェストバージニア州を結成した。バージニア州出身のロバート・E・リーが1862年に北バージニア軍の指揮官となり、北軍領土に侵略し、最後は全南軍の総司令官となった。この戦中に、第一次と第二次のブルランの戦い、七日間の戦い、チャンセラーズヴィルの戦い、さらに終戦に繋がったアポマトックス・コートハウスの戦いなどがバージニア州で戦われ、戦闘の数は他のどの州よりも多かった[41]。