フレンチ・インディアン戦争の後でイギリスの議会が植民地に新税を課したことが、植民地では極めて不人気だった。バージニア植民地議会では、代表権の無い課税に反対する声が挙がり、数多い論客の中でもパトリック・ヘンリーやリチャード・ヘンリー・リーが反対論を指導した[31]。バージニアは他の植民地と共に1773年にその行動を協調させる動きを始め、翌1774年の大陸会議に代議員を派遣した[32]。1774年に植民地総督が植民地議会を解散させた後、革命派指導者達はバージニア会議を通じて支配を継続した。1776年5月15日、この会議はイギリス帝国からの独立を宣言し、ジョージ・メイソンが起草したバージニア権利章典を採択し、これが新憲法に含まれることになった[33]。トーマス・ジェファーソンはメイソンの宣言を受けて全植民地のアメリカ独立宣言を起草した[34]。
1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ジョージ・ワシントンが大陸軍の指揮官に選出された。戦中に、海岸にあるウィリアムズバーグの位置が、イギリス軍による攻撃を受けやすいことを怖れたジェファーソンの進言で、首都がリッチモンドに移された[35]。1781年、大陸軍とフランス陸海軍の共同作戦で、イギリス軍をバージニア半島に閉じこめた。ヨークタウンの包囲戦ではジョージ・ワシントンとフランス軍ロシャンボー伯爵の軍隊が、イギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の軍隊を破った。1781年10月19日にコーンウォリスが降伏したことで、パリ和平会議に繋がり、植民地の独立を確かなものにした[36]。
アメリカ合衆国憲法の起草でもバージニア人が中心になった。1787年にジェームズ・マディソンがバージニア・プランを起草し、1780年には権利章典を書いた[34]。バージニアは1788年6月25日にアメリカ合衆国憲法を批准し、合衆国10番目の州になった。当時奴隷人口が多かったバージニア州は、憲法に盛り込まれた5分の3妥協案により、アメリカ合衆国下院でも最大の議員団を誇った。バージニア州出身のアメリカ合衆国大統領が続いたことで、バージニア朝とも呼ばれ、国内でその重要性を維持した。1790年、バージニア州とメリーランド州が連邦政府に土地を譲渡して、新しい連邦の首都コロンビア地区を形成した。ただし、バージニア州が譲った土地は1846年に返還された[37]。バージニア州は「州の母」とも呼ばれる。1792年にバージニア州から分かれたケンタッキーが州に昇格するなど、幾つかの州が生まれ、またバージニア州生まれの多くの者が西部の開拓者となったからである[38]。
南北戦争とその後詳細は「南北戦争」を参照フレデリックスバーグのメアリーズハイツ前で休息する北軍兵、1863年5月
奴隷労働力は農業の他にも鉱業や造船業などで利用が高まっていった[39]。