シャーロッツビルは、リバンナ川を望む丘にあり、英国王ジョージ3世の妻シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツにちなんで名づけられ、18世紀ごろから町として形成された。学生の知性と活気・伝統・美しい自然の3拍子揃った町であるシャーロッツビルは、2004年にはCities Ranked and Rated[9] において、気候や物価など総合的な評価で、アメリカ国内で、最も住みやすい都市に選ばれた。まさに学生生活を送るのに最適な環境である。 1819年に創立されたが、 最初の学生が入学したのは1825年の3月であった。ジェファーソンは翌年亡くなるまで近くの自宅モンティチェロで日曜日に教授と学生のために夕食会を開いた。その学生の中にはエドガー・アラン・ポーもいた。 バージニア大学はトーマス・ジェファーソン以外にも大統領を含む多くの政治家たちにより作られ、また同時に輩出してきた。1826年、第4代大統領ジェームズ・マディソンが大学の学長となり、同じとき、第五代大統領ジェームズ・モンローは大学の評議会のメンバーであり、また学内に家も建てていた。 第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンはバージニア大学のロー・スクールに通い、大統領候補で暗殺されたロバート・ケネディとその弟エドワード・ケネディも同じロースクールを卒業した。その他に3人の合衆国最高裁判所裁判官、2人の軍医総監、 下院議長、上院多数党院内総務、国務長官、国防長官、エネルギー長官、運輸長官、財務長官、海軍長官、そして欧州連合と北大西洋条約機構の事務総長などを輩出している。 パブリック・アイビーとはバージニア大学を表すためにピューリッツァー賞受賞者でノーベル賞受賞者でもあるウィリアム・フォークナーによって作られた言葉である。アイビー・リーグがまだ北東部でつくられはじめたばかりの時期であった。当時バージニア大学は学部の一部をコーネル大学のように私立化し、アイビー・リーグに入ることを検討していた。フォークナーはのちに大学での住み込み作家として1962年に死ぬまでオフィスを開いていた。 1950年まで白人のみが、また1970年まで男子のみしか入学が許されなかったが、現在バージニア大学は非常に人種多様な大学となっている。2008年卒業予定の入学生の割合は黒人が10%、アジア系が14%, ヒスパニック系が5%, その他が5%である。海外からの学生も5%いる。自分自身を白人だと答える生徒の割合は3分の2以下になっている。 2004年、バージニア大学は公立の大学としてアメリカではじめて個人からの寄付金の合計が大学のある州からの助成金を上回った。現在、バージニア大学とバージニア工科大学、 ウィリアム・アンド・メアリー大学の3校は現在州議会が直面する予算削減にかかわらず自由な経営を目指すためのチャーター・イニシアティブに取り組んでいる。 2017年8月、「ユナイト・ザ・ライト・ラリー」集会の前夜、シャーロッツビル市が現存の南軍戦士の像を完全撤去することを決定した後、学生ではない非バージニアの白人主義者のグループが松明を持って大学の芝生広場を行進し、反ユダヤ主義やナチスのスローガンを唱えた。 デモ隊はロトゥンダ前のトーマス・ジェファーソン像の近くで学生の抗議者と喧嘩になり、1名の死亡者を出す騒動となった。 2022年11月13日、アメリカンフットボール部のメンバー3人が銃撃されて死亡した。容疑者は2018年シーズンのチームのメンバーであった元高校ランニングバックであったが、長引いている怪我によりチームとともに練習することは出来なかった[10]。 ジェファーソンは政治家だけでなく、建築家としても偉大な功績を残しており、バージニア大学の建物もジェファーソンによりデザインされている。ジェファーソンは大学を「アカデミカル・ヴィレッジ (Academical Village)」と呼び、教師と学生が共同体として学びあう大学を理想とした。またバージニア大学では学内の敷地をキャンパスとは呼ばず、「グラウンズ (Grounds)」と呼ぶ ジェファーソンのデザインは「Lawn」と呼ばれる大きな芝生のエリアを中心に学生および教授の住居や教室が囲む形となっている。中心となる建物はロタンダ
沿革
建築パンテオン (ローマ)