バングラデシュ
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紀元前4世紀マウリヤ朝から6世紀グプタ朝まで数々の王朝属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるが、これには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。

8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝に取って代わられた。13世紀イスラム教化が始まった[注釈 3]13世紀にはイスラム教のベンガル・スルターン朝の下で、商工業の中心地へと発展した。その後、ベンガルは南アジアで最も豊かで最も強い国になった。16世紀にはムガル帝国の下で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。このころに、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている[9]
イギリス領時代1907年当時の東ベンガル

15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリス東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド亜大陸全域に拡大した(英領インド)。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物や米の輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された[10]。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。

やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を企図。1905年ベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、英領東ベンガルおよびアッサム(英語版)が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部のアッサム州メガラヤ州アルナーチャル・プラデーシュ州に相当)。1906年にはダッカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。

当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会で、ベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万?300万人の死者を出した[11]。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。
インド領東ベンガルダッカ市内のベンガル語運動1952年

そのような中でインドは1947年に英領から独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル(英語版)(1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。
パキスタン領東パキスタン詳細は「東パキスタン」を参照

両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。同年12月の選挙において人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、翌年の1971年3月にはパキスタン軍が軍事介入して東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタンと内乱になった(バングラデシュ独立戦争)。西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争パキスタンの降伏によりインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプ虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる[12]
独立、ムジブル・ラフマン政権詳細は「チッタゴン丘陵地帯紛争(英語版)」を参照

独立後はアワミ連盟シェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(英語版) (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニー(英語版)とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年クーデターが起き、ムジブル・ラフマンが殺害される。
ジアウル・ラフマン政権

その後、軍部からジアウル・ラフマン少将が大統領となった。1979年以降、バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。
エルシャド政権

1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャド中将が再び軍事政権を樹立した。1988年には、チッタゴン丘陵地帯のコルノフリ川(英語版)上流のカプタイ・ダムに国内唯一の水力発電所(230MW)を建設して10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がビルマ(現ミャンマー)へ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。

エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣した。
民主化

1991年3月の総選挙で、バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いた後、1992年に休戦。1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。

1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される[13]1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイク・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。

2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。
軍政・民政復帰

2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。

2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。 ⇒[1]

2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイク・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した ⇒[2]。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。

2014年に行われた第10次総選挙では、BNP率いる野党18連合がボイコットするまま総選挙が実施され,与党アワミ連盟が圧勝した[14]
政治シェイク・ハシナ首相国会議事堂詳細は「バングラデシュの政治(英語版)」を参照

1991年憲法が改正され、大統領(象徴的な存在)を元首とする議院内閣制が確立した[13]。2024年総選挙では、主要野党がボイコットするなか与党のアワミ連盟が過半数を大きく上回る議席を獲得した[15]
元首詳細は「バングラデシュの大統領」を参照

旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため総督を置かず、元首大統領である。大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴的地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立して政治的混乱が起きた際は、議会を解散して暫定政府を発足させる権限がある。「バングラデシュ政府(英語版)」も参照
行政詳細は「バングラデシュの首相」を参照

行政府の長である首相は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。内閣の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。

バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。汚職がひどく、2011年の腐敗認識指数は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種NGOが多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOのBRACグラミン銀行などが規模も大きく著名である。
立法詳細は「国会 (バングラデシュ)」を参照

議会は、一院制で、Jatiya Sangsad(国会)と呼ばれる。全350議席で、このうち50議席は女性枠である。任期5年。選挙方式は小選挙区制だが、女性枠の議席は選挙結果をもとに各党に比例配分される[15]

民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている[注釈 4]。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い[16]。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち[注釈 5]、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストライキや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。「バングラデシュの政党」も参照
司法

この節の加筆が望まれています。


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