シンガポールのオーストラリア軍事法廷は、歩兵第二二九連隊長だった田中良三郎
(中国語版)少将 (事件当時大佐)を逮捕した。連隊はガダルカナルで全滅して、証言者がいなかった。また、同連隊第一大隊長だった折田優少佐 (事件当時大尉)は、1948年6月16日にシベリアから舞鶴に帰還し、6月19日に米軍に身柄を引渡され、巣鴨拘置所に拘留された。唯一の生存者ブルウィンケルは、証人として東京裁判に呼ばれた。折田は、未決勾留中の9月(『世紀の自決』によれば8日[9]、田中利幸によれば13日に)に窓ガラス修理用の道具で首の血管を切って自殺し[10]、起訴には至らなかった[11]。事件は犯行者が特定できなかったため立件されなかった[1]。ブルウィンケルは、1947年に除隊し、メルボルン郊外のフェアフィールド感染症病院
(英語版)の婦長となった。のちにバンカ島の犠牲者のための基金を立ち上げ、後にオーストラリア看護大学(英語版)の学長となった[8]。1990年代前半にメルボルン大学の教員だった田中利幸が、女性看護師たちが銃殺前に日本兵に強姦された疑いがあると主張した[12]。
2019年4月、BBCは、オーストラリアの歴史家リネット・シルヴァー
(英語版)や作家のバーバラ・エンジェル(英語版)、テレビキャスターのテス・ローレンスの調査・検証により、事件前にオーストラリア人看護師の避難を遅らせていた過去の政府の判断や犠牲者の名誉を考慮したオーストラリア当局によってブルウィンケルは暴行に関する証言を禁じられていたことや、証言記録の一部が破棄され、看護師の衣服が補修されていたことなどが判明したと報道した[13][14]。