バルフ
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3世紀後半から4世紀頃、サーサーン朝はバルフにクシャーン・シャーを置いていた[12]。588年、サーサーン朝のバフラーム・チョ・ベーン将軍が突厥からバルフを取り返した[15]。629年、玄奘三蔵がインドを目指してを出発し、途中でバルフを訪れた。当時のバルフは縛喝国(ばかつこく[16])と呼ばれ、周囲20余里(約8.8キロメートル)の大都城があった。小乗仏教が盛んで100余の伽藍と3000余人の僧侶が居り、「小王舎城」と呼ばれていた。街の西南には納縛僧伽藍(なばそうがらん[16])があり、仏像のある北堂、聖遺物を納めた南堂、高さ200余尺(約67メートル)の卒塔婆(仏塔)と精舎(僧院)があったと言う[17]。イスラーム化以前のバルフでは仏教、ゾロアスター教以外にマニ教ネストリウス派キリスト教も信仰されていた[7]

イスラム教を奉じるアラブ軍が最初にバルフを占領したのは、642年のニハーヴァンドの戦いの後である。その後、653年にウマイヤ朝が成立し再びバルフを占領した[18]。この頃、バードギース州を根拠地とするエフタルのタルハン・ネザーブが反アラブ連合を組織し[18]、広域な反乱を起こしたと言う。ウマイヤ朝は700年にタルハン・ネザーブを倒し、736年にバルフに正式な行政府を作った[18]。しかしシルクロード貿易を巡る争いに吐蕃が参戦し、750年アッバース朝によって占領され、821年にはターヒル朝が興るなど戦乱が続いた[18]。この二百年に及ぶ戦乱の中で、ナウバハール寺院が破壊されたようである[13]。9世紀後半、アフガニスタンにおける初期のモスクの1つである「ノ・グムバード」が建設された[18]。900年頃になるとサーマーン朝がこの地を征服して勢力を拡大させた。12世紀の地理学者イドリースィーによると、バルフはホラーサーン地方の主要都市の1つとして繁栄し、商業や教育が盛んだったと言う[13]
中世ティムールの攻撃

1135年、セルジューク朝のスルターン・アフマド・サンジャルがマザーリシャリーフでハズラト・アリーの遺体を発見し、墓を作ったと言う。1173年、ゴール朝がバルフを奪回したが[19]、1215年にホラズム・シャー朝に滅ぼされた。1218年からのモンゴル帝国のホラズム・シャー朝攻撃に際してバルフはモンゴルに降伏するが、バルフの動向を警戒したチンギス・カンの命令によって市民は虐殺され、城壁が破壊される[20]。チンギス・カンに仕えた耶律楚材は「大河に臨んで斑城なる町あり、すこぶる富盛なり」と記している[21]。13世紀後半、中国に向かう途中のマルコ・ポーロがバルクを訪れた。その頃のバルクは巴里黒と呼ばれており[22]、ヨーロッパではアレクサンダー大王とダレイオス王の娘ロクサーナ[注釈 1]が結婚した町として知られていた。タタール(モンゴル)の攻撃によって壮麗な宮殿や大理石造りの美しい邸宅が破壊され廃墟になっていたが、それでも立派な都市であり、モンゴルと他の勢力を分ける国境地帯の街として栄えていたと言う[23]

1318年から26年頃、チャガタイ・ハン国ケベクによってバルフは再興された[24]1333年にバルフを訪れたイブン・バットゥータは荒廃してはいるものの、堅固で壮大な市街地やモスクマドラサの遺跡から往時の繁栄の跡が偲ばれると書き残している[25]。1340年頃からチャガタイ・ハン国は分裂し、アフガニスタン北部のうちバルフ川流域はスルドゥス部族によって支配された[26]1368年に西チャガタイ・ハン国の有力アミール(貴族)であるフサインはバルフを本拠地に定めて防備を固めた。1369年、フサインと対立するアミール・ティムールはバルフに進軍し、包囲の末に街を陥落させる(バルフ包囲戦(英語版))[27]。1370年4月9日にティムールはバルフで臣従の誓い(バイア)を受け、新たな政権を樹立する[28]15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が「八剌黒」(バルフ)を訪れた[29]1447年には再びバルフ包囲戦(英語版)があったという[13]1480年頃、スルターン・フサイン・バイカラがマザーリシャリーフのハズラト・アリー廟を修復した[30]


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