1646年にムガル帝国がアフガニスタン北部に侵攻し、ジョウズジャーン州のシェベルガーンでジャーン朝に勝利しバルフを支配下に置いたが、ゲリラ戦により撤退した[32]。1751年、サドーザイ朝のアフマド・シャー・ドゥッラーニーがバルフなどを征服した[33]。 1849年、ドースト・ムハンマド・ハーンの息子のムハンマド・アクラム・ハーンがバルフを占領した[34]。1879年、シール・アリー・ハーンがバルフで死去した[35]。 バルフ州は農業が盛んで、アフガニスタンでも屈指の小麦・大麦の産地である。バルフ郡はショールガラ郡と並んでアサやゴマ、タバコ、オリーブ、マスタード(パシュトゥー語とダリー語でSharham[36])など商品作物の産地であり、絨毯の製造も行っている[37]。 街の歴史は非常に古いが戦乱による被害のため保存状態が悪く、廃墟になっているものが多い。
近代
産業
史跡
サイード・スーバン・クリハーン(英語: Sayed Subhan Quli Khan)のマドラサ[38]
城壁廃墟[38](英語: Bala Hissar) - 街の北側に巨大な丘がある[39][40]。
ホワジャ・アブ・ナスル・パルサ寺院
ラビア・バルヒ
ノ・グムバード・モスク
街の内外で仏教遺跡が見つかる。
タフト・イ・ルスタム(英語: Takht-e Rustam)- 南門の外にある遺跡。大唐西域記に記されている納縛僧伽藍という説がある[42]。
トープ・イ・ルスタム(英語: Tepe Rustam)- ルスタムの円塔という意味。大唐西域記に記されている納縛僧伽藍の仏塔(?塔婆)という説がある[3][42]。発掘調査によると、四方に階段のある二重の方形基壇の上に円筒基壇があり、その上に伏鉢があったと思われる。
テペ・ザルガラン - 街の東側の旧市街地の中にある仏教伽藍址[42]。
チャルキ・ファラク - 東門の外にある遺跡。仏塔の可能性がある[42]。
主な出身者
アブー・マーシャル(潮の満干と月の満ち欠けを関連づけた)
イブヌル・バルヒー(歴史家、『ファールースの書』)
ジャラール・ウッディーン・ルーミー(メヴレヴィー教団の創始者、ペルシア四大詩人)
サーマーン・フダー
ウンスーリー(詩人)
ダキーキー(詩人)
ラシッド・アル=ディーン・ワトワート(詩人)
ミールホーンド(歴史家)
注釈^ 実際の第一王妃ロクサーナはバクトリアの王女で、アケメネス朝を滅ぼす前に結婚していた。ダレイオス3世の娘の名はスタテイラで、後からアレクサンドロスの妃になった。
出典^ Central Statistics Organization (2013年). “ ⇒Settled Population of Balkh province by Civil Division , Urban, Rural and Sex-2012-13”. Islamic Republic of Afghanistan. 2014年2月8日閲覧。