バルフ
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15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が「八剌黒」(バルフ)を訪れた[29]1447年には再びバルフ包囲戦(英語版)があったという[13]1480年頃、スルターン・フサイン・バイカラがマザーリシャリーフのハズラト・アリー廟を修復した[30]。1507年に草原地帯から南下を続けるウズベク国家のシャイバーニー朝ブハラ・ハン国)がアフガニスタンに到達し、サファヴィー朝と衝突した。1510年のマルウ近郊の戦いでシャイバーニー朝は敗北し、一旦は押し戻されたものの、1568年にシャイバーニー朝のアブドゥッラー・ブン・イスカンダルはバルフを占領する[31]
近世

1646年にムガル帝国がアフガニスタン北部に侵攻し、ジョウズジャーン州のシェベルガーンでジャーン朝に勝利しバルフを支配下に置いたが、ゲリラ戦により撤退した[32]。1751年、サドーザイ朝アフマド・シャー・ドゥッラーニーがバルフなどを征服した[33]
近代

1849年、ドースト・ムハンマド・ハーンの息子のムハンマド・アクラム・ハーンがバルフを占領した[34]。1879年、シール・アリー・ハーンがバルフで死去した[35]
産業

バルフ州は農業が盛んで、アフガニスタンでも屈指の小麦・大麦の産地である。バルフ郡はショールガラ郡と並んでアサゴマタバコオリーブマスタード(パシュトゥー語とダリー語でSharham[36])など商品作物の産地であり、絨毯の製造も行っている[37]
史跡

街の歴史は非常に古いが戦乱による被害のため保存状態が悪く、廃墟になっているものが多い。

サイード・スーバン・クリハーン(
英語: Sayed Subhan Quli Khan)のマドラサ[38]

城壁廃墟[38]英語: Bala Hissar) - 街の北側に巨大な丘がある[39][40]

ホワジャ・アブ・ナスル・パルサ寺院(英語: Khwaja Abu Nasr Parsa)[38] - 「緑のモスク」という説もある。

ラビア・バルヒの墓[38]

ノ・グムバード・モスク[38](ノフ・ゴンバド、ハジ・ピヤタ) - 9世紀に建てられたアフガニスタン最古のモスクの1つであり[18]、名前の由来は9つのドームを持つモスクという意味である。現在は柱だけが残っている[41]

街の内外で仏教遺跡が見つかる。

タフト・イ・ルスタム(英語: Takht-e Rustam)- 南門の外にある遺跡。大唐西域記に記されている納縛僧伽藍という説がある[42]

トープ・イ・ルスタム(英語: Tepe Rustam)- ルスタムの円塔という意味。大唐西域記に記されている納縛僧伽藍の仏塔(?塔婆)という説がある[3][42]。発掘調査によると、四方に階段のある二重の方形基壇の上に円筒基壇があり、その上に伏鉢があったと思われる。

テペ・ザルガラン - 街の東側の旧市街地の中にある仏教伽藍址[42]

チャルキ・ファラク - 東門の外にある遺跡。仏塔の可能性がある[42]

主な出身者

アブー・マーシャル
(潮の満干と月の満ち欠けを関連づけた)

イブヌル・バルヒー(歴史家、『ファールースの書』)

ジャラール・ウッディーン・ルーミーメヴレヴィー教団の創始者、ペルシア四大詩人)

サーマーン・フダー

ウンスーリー(詩人)

ダキーキー(詩人)

ラシッド・アル=ディーン・ワトワート(詩人)

ミールホーンド(歴史家)

注釈^ 実際の第一王妃ロクサーナバクトリアの王女で、アケメネス朝を滅ぼす前に結婚していた。ダレイオス3世の娘の名はスタテイラで、後からアレクサンドロスの妃になった。

出典^ Central Statistics Organization (2013年). “ ⇒Settled Population of Balkh province by Civil Division , Urban, Rural and Sex-2012-13”. Islamic Republic of Afghanistan. 2014年2月8日閲覧。


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