その後は大月氏やクシャーナ朝のもとで繁栄し、仏教の受容も進んでいった。クシャーナ朝のカニシカ王の治世以降、7世紀のアラブ人の征服まで仏教の繁栄は続いた[7]。バルフにはナウバハール寺院(英語版)があり、この地方の仏教の中心地として繁栄した。後にアッバース朝の宰相を輩出し、千夜一夜物語にも登場するバルマク家は、バルフの仏教徒集団の長だったと言う[14]。3世紀後半から4世紀頃、サーサーン朝はバルフにクシャーン・シャーを置いていた[12]。588年、サーサーン朝のバフラーム・チョ・ベーン将軍が突厥からバルフを取り返した[15]。629年、玄奘三蔵がインドを目指して唐を出発し、途中でバルフを訪れた。当時のバルフは縛喝国(ばかつこく[16])と呼ばれ、周囲20余里(約8.8キロメートル)の大都城があった。小乗仏教が盛んで100余の伽藍と3000余人の僧侶が居り、「小王舎城」と呼ばれていた。街の西南には納縛僧伽藍(なばそうがらん[16])があり、仏像のある北堂、聖遺物を納めた南堂、高さ200余尺(約67メートル)の卒塔婆(仏塔)と精舎(僧院)があったと言う[17]。イスラーム化以前のバルフでは仏教、ゾロアスター教以外にマニ教、ネストリウス派のキリスト教も信仰されていた[7]。
イスラム教を奉じるアラブ軍が最初にバルフを占領したのは、642年のニハーヴァンドの戦いの後である。その後、653年にウマイヤ朝が成立し再びバルフを占領した[18]。この頃、バードギース州を根拠地とするエフタルのタルハン・ネザーブが反アラブ連合を組織し[18]、広域な反乱を起こしたと言う。ウマイヤ朝は700年にタルハン・ネザーブを倒し、736年にバルフに正式な行政府を作った[18]。しかしシルクロード貿易を巡る争いに唐や吐蕃が参戦し、750年にアッバース朝によって占領され、821年にはターヒル朝が興るなど戦乱が続いた[18]。この二百年に及ぶ戦乱の中で、ナウバハール寺院が破壊されたようである[13]。9世紀後半、アフガニスタンにおける初期のモスクの1つである「ノ・グムバード」が建設された[18]。900年頃になるとサーマーン朝がこの地を征服して勢力を拡大させた。12世紀の地理学者イドリースィーによると、バルフはホラーサーン地方の主要都市の1つとして繁栄し、商業や教育が盛んだったと言う[13]。
中世ティムールの攻撃
1135年、セルジューク朝のスルターン・アフマド・サンジャルがマザーリシャリーフでハズラト・アリーの遺体を発見し、墓を作ったと言う。1173年、ゴール朝がバルフを奪回したが[19]、1215年にホラズム・シャー朝に滅ぼされた。1218年からのモンゴル帝国のホラズム・シャー朝攻撃に際してバルフはモンゴルに降伏するが、バルフの動向を警戒したチンギス・カンの命令によって市民は虐殺され、城壁が破壊される[20]。