バルフ
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前522年、アケメネス朝ダレイオス1世に対する大規模な反乱がマルギアナで起き、バクトリアの太守が出動して鎮圧した[10]。その後アレクサンドロス3世アケメネス朝に攻め入り、前334年にバルフを占領し、地元の豪族スピタメネスと戦う拠点とした。前331年、ガウガメラの戦いが起きた。バクトリアの太守ベッソスダレイオス3世の主力部隊の1つとして奮戦したが、後にダレイオス3世を殺害して自分が王になろうとした[11]。前301年のイプソスの戦いの後、セレウコス朝はバクトリアを征服し、バクトラに副王を置いた。これによってバクトリアでギリシャ人の入植が始まったという説がある[12]。前256年頃、ギリシア人のディオドトスがセレウコス朝に対して反乱を起こし、バクトラを中心としてバクトリア王国が独立を果たした。この地ではギリシア文化が維持され、後世にも影響を与えたとされる[13]。バルフ近郊の直径約1kmの円形の城址であるバラヒッサールはバクトラの遺跡であると考えられている[3]。1923年から1925年にかけてバルフで行われた発掘調査、1947年に再び行われた発掘調査ではバクトリア王国時代の出土品は確認できず、ヘレニズム文化に属する遺跡は発見されていない[3]

その後は大月氏クシャーナ朝のもとで繁栄し、仏教の受容も進んでいった。クシャーナ朝のカニシカ王の治世以降、7世紀のアラブ人の征服まで仏教の繁栄は続いた[7]。バルフにはナウバハール寺院(英語版)があり、この地方の仏教の中心地として繁栄した。後にアッバース朝の宰相を輩出し、千夜一夜物語にも登場するバルマク家は、バルフの仏教徒集団の長だったと言う[14]。3世紀後半から4世紀頃、サーサーン朝はバルフにクシャーン・シャーを置いていた[12]。588年、サーサーン朝のバフラーム・チョ・ベーン将軍が突厥からバルフを取り返した[15]。629年、玄奘三蔵がインドを目指してを出発し、途中でバルフを訪れた。当時のバルフは縛喝国(ばかつこく[16])と呼ばれ、周囲20余里(約8.8キロメートル)の大都城があった。小乗仏教が盛んで100余の伽藍と3000余人の僧侶が居り、「小王舎城」と呼ばれていた。街の西南には納縛僧伽藍(なばそうがらん[16])があり、仏像のある北堂、聖遺物を納めた南堂、高さ200余尺(約67メートル)の卒塔婆(仏塔)と精舎(僧院)があったと言う[17]。イスラーム化以前のバルフでは仏教、ゾロアスター教以外にマニ教ネストリウス派キリスト教も信仰されていた[7]

イスラム教を奉じるアラブ軍が最初にバルフを占領したのは、642年のニハーヴァンドの戦いの後である。その後、653年にウマイヤ朝が成立し再びバルフを占領した[18]。この頃、バードギース州を根拠地とするエフタルのタルハン・ネザーブが反アラブ連合を組織し[18]、広域な反乱を起こしたと言う。ウマイヤ朝は700年にタルハン・ネザーブを倒し、736年にバルフに正式な行政府を作った[18]。しかしシルクロード貿易を巡る争いに吐蕃が参戦し、750年アッバース朝によって占領され、821年にはターヒル朝が興るなど戦乱が続いた[18]。この二百年に及ぶ戦乱の中で、ナウバハール寺院が破壊されたようである[13]。9世紀後半、アフガニスタンにおける初期のモスクの1つである「ノ・グムバード」が建設された[18]。900年頃になるとサーマーン朝がこの地を征服して勢力を拡大させた。12世紀の地理学者イドリースィーによると、バルフはホラーサーン地方の主要都市の1つとして繁栄し、商業や教育が盛んだったと言う[13]
中世ティムールの攻撃

1135年、セルジューク朝のスルターン・アフマド・サンジャルがマザーリシャリーフでハズラト・アリーの遺体を発見し、墓を作ったと言う。1173年、ゴール朝がバルフを奪回したが[19]、1215年にホラズム・シャー朝に滅ぼされた。1218年からのモンゴル帝国のホラズム・シャー朝攻撃に際してバルフはモンゴルに降伏するが、バルフの動向を警戒したチンギス・カンの命令によって市民は虐殺され、城壁が破壊される[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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