バルフ
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ウマイヤ朝は700年にタルハン・ネザーブを倒し、736年にバルフに正式な行政府を作った[18]。しかしシルクロード貿易を巡る争いに吐蕃が参戦し、750年アッバース朝によって占領され、821年にはターヒル朝が興るなど戦乱が続いた[18]。この二百年に及ぶ戦乱の中で、ナウバハール寺院が破壊されたようである[13]。9世紀後半、アフガニスタンにおける初期のモスクの1つである「ノ・グムバード」が建設された[18]。900年頃になるとサーマーン朝がこの地を征服して勢力を拡大させた。12世紀の地理学者イドリースィーによると、バルフはホラーサーン地方の主要都市の1つとして繁栄し、商業や教育が盛んだったと言う[13]
中世ティムールの攻撃

1135年、セルジューク朝のスルターン・アフマド・サンジャルがマザーリシャリーフでハズラト・アリーの遺体を発見し、墓を作ったと言う。1173年、ゴール朝がバルフを奪回したが[19]、1215年にホラズム・シャー朝に滅ぼされた。1218年からのモンゴル帝国のホラズム・シャー朝攻撃に際してバルフはモンゴルに降伏するが、バルフの動向を警戒したチンギス・カンの命令によって市民は虐殺され、城壁が破壊される[20]。チンギス・カンに仕えた耶律楚材は「大河に臨んで斑城なる町あり、すこぶる富盛なり」と記している[21]。13世紀後半、中国に向かう途中のマルコ・ポーロがバルクを訪れた。その頃のバルクは巴里黒と呼ばれており[22]、ヨーロッパではアレクサンダー大王とダレイオス王の娘ロクサーナ[注釈 1]が結婚した町として知られていた。タタール(モンゴル)の攻撃によって壮麗な宮殿や大理石造りの美しい邸宅が破壊され廃墟になっていたが、それでも立派な都市であり、モンゴルと他の勢力を分ける国境地帯の街として栄えていたと言う[23]

1318年から26年頃、チャガタイ・ハン国ケベクによってバルフは再興された[24]1333年にバルフを訪れたイブン・バットゥータは荒廃してはいるものの、堅固で壮大な市街地やモスクマドラサの遺跡から往時の繁栄の跡が偲ばれると書き残している[25]。1340年頃からチャガタイ・ハン国は分裂し、アフガニスタン北部のうちバルフ川流域はスルドゥス部族によって支配された[26]1368年に西チャガタイ・ハン国の有力アミール(貴族)であるフサインはバルフを本拠地に定めて防備を固めた。1369年、フサインと対立するアミール・ティムールはバルフに進軍し、包囲の末に街を陥落させる(バルフ包囲戦(英語版))[27]。1370年4月9日にティムールはバルフで臣従の誓い(バイア)を受け、新たな政権を樹立する[28]15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が「八剌黒」(バルフ)を訪れた[29]1447年には再びバルフ包囲戦(英語版)があったという[13]1480年頃、スルターン・フサイン・バイカラがマザーリシャリーフのハズラト・アリー廟を修復した[30]。1507年に草原地帯から南下を続けるウズベク国家のシャイバーニー朝ブハラ・ハン国)がアフガニスタンに到達し、サファヴィー朝と衝突した。1510年のマルウ近郊の戦いでシャイバーニー朝は敗北し、一旦は押し戻されたものの、1568年にシャイバーニー朝のアブドゥッラー・ブン・イスカンダルはバルフを占領する[31]
近世

1646年にムガル帝国がアフガニスタン北部に侵攻し、ジョウズジャーン州のシェベルガーンでジャーン朝に勝利しバルフを支配下に置いたが、ゲリラ戦により撤退した[32]。1751年、サドーザイ朝アフマド・シャー・ドゥッラーニーがバルフなどを征服した[33]
近代

1849年、ドースト・ムハンマド・ハーンの息子のムハンマド・アクラム・ハーンがバルフを占領した[34]。1879年、シール・アリー・ハーンがバルフで死去した[35]
産業

バルフ州は農業が盛んで、アフガニスタンでも屈指の小麦・大麦の産地である。バルフ郡はショールガラ郡と並んでアサゴマタバコオリーブマスタード(パシュトゥー語とダリー語でSharham[36])など商品作物の産地であり、絨毯の製造も行っている[37]


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