河川名平均流量
[m3/s]長さ流域面積
[km2]流域諸国最も長い流路
ネヴァ川2,5000,074 km
(nominal)860 km
(hydrological)281,000.0ロシア、フィンランドスナ川
古代ローマではバルト海南東部をスエビの海 (Mare Suebicum) と呼んでいた。南岸にゲルマン人ともケルト人ともいわれるスエビ族が住んでいたようである。民族移動時代の前は、スエビ族はゲルマニアの最強民族として知られていた民族である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}8世紀以降、スウェーデン人を中心としたヴァイキング(ヴァリャーグ)が、バルト海を掌握していた可能性が高く、バルト海が「ヴァリャーグ海」と呼称されていた時代もある。[要出典]このころ、すでにシュレースヴィヒには交易都市ハイタブが建設されており、また「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる、バルト海からノヴゴロドやヴォルガ川を通って黒海へ、さらに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた[10]。ノース人やデーン人が西方の北海方面へ進出したのに対し、スウェーデン人は東方のバルト海方面へと進出したのである。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[11]。ハンザ同盟主要交易ルート
12世紀にはいると、バルト海南岸に東方植民運動が起こり、またドイツ騎士団などの騎士修道会によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。北方十字軍とも呼ばれるこの動きによって、西方のドイツからドイツ人が次々と植民を行い、この地域はドイツ化していった。この東方植民により、ドイツ商人もこの地域へと進出し、やがてハンザ同盟を結成してバルト海の制海権を握るようになった。12世紀に設立されたこの同盟は、バルト海南岸のリューベックを盟主とし、ヴィスビューやリガ、ダンツィヒなど多くのバルト海沿岸都市が加盟した。このころは海流の影響により、バルト海入口のスコーネ地方において非常に大量のニシンが捕れ[12]、このニシンが同盟諸都市の重要な輸出項目となっていた。