バルト海南岸と北岸を結ぶ鉄道連絡船も数多く存在し、とくに島嶼の多いデンマーク国内を結ぶものや、ドイツ・デンマーク・スウェーデン各国を連絡するものなどがある。一般的には車両航送を行うものがほとんどで、乗客は列車に乗車したままバルト海を渡ることができる。しかし20世紀後半以降、各地で橋梁の建設が進み、連絡船は次第に数を減少させつつある[要出典]。
1980年代にはすでに小ベルト海峡を越えてユトランド半島とフュン島を結ぶ橋が架けられていたが、1997年6月1日には大ベルト海峡を越えてフュン島とシェラン島とを結ぶグレートベルト・リンクが開通し、さらに2000年7月1日にはエーレスンド海峡を越えてシェラン島のコペンハーゲンとスカンディナビア半島のマルメとを結ぶオーレスン・リンクが開通して、ここにバルト海を越えてヨーロッパ大陸とスカンディナヴィア半島を直接結ぶ鉄道・道路ルートが完成した。また、フェーマルン・ベルト海峡を潜って、ドイツのフェーマルン島とデンマークのロラン島を結ぶフェーマルン・ベルトトンネルの建設が現在進んでおり、これが完成すればハンブルクとコペンハーゲンの間がさらに短縮される[要出典]。 冷戦中は、東側に属するソヴィエト連邦と西側に属する西ドイツ、および中立を標榜する北欧諸国との角逐の場であったが、冷戦終結とソヴィエト連邦崩壊とともに地域協力の必要性が生じ、1992年には沿岸10か国とアイスランドの加盟するバルト海諸国理事会が設立された。2005年、ロシア大統領のウラジーミル・プーチンはバルト海の海底を通ってロシアとドイツを結ぶ天然ガスパイプライン、ノルド・ストリームの建設協定を締結し、2011年11月8日に稼働を開始した[28]。 バルト海は狭いスカゲラック海峡を通じて北海にしか通じていない閉鎖性海域であり、海水が滞留しやすく水の入れ替えが少ない。このため、周辺の汚染物質も滞留しやすく、1950年代より徐々に環境が悪化し始め、1970年代には汚染はピークに達した。1977年以降、1993年初頭までの間、北海からの塩分濃度の高い海水の流入がほぼ止まったため、汚染はさらにひどくなった。このころにはフィンランドやスウェーデンでは汚染対策が進展したのに対し、ソヴィエト連邦およびポーランドにおいては汚染対策が遅れ、とくにフィンランド湾やリガ湾、グダニスク湾などで水質汚染と富栄養化が進んだ[29][30] こうした環境悪化を食い止めるため、1974年にはバルト海洋環境保護協定(ヘルシンキ協定)が締結された[31][30]。また、1982年には国際バルト海漁業会議が設置され、バルト海における生物資源保護を担当することとなった。 さらに、2005年には、沿岸諸国の申請に基づき国際海事機関(IMO)がバルト海を特別敏感海域に指定し、その保護を図っている。 また、バルト海は戦略上の要所だったことから戦争の度に大量の機雷が陣営を問わず敷設された。本来なら、戦争の終結と共に撤去されるものだが、ロシア革命や冷戦などの政治上の混乱が相次いだ事でまともに撤去されないまま放置され、21世紀の現在も周辺諸国による掃海作業が続いている。 バルト海南岸の、現在ドイツ・ポーランド領となっている地域のうち、低湿で農業に適さない西側はポンメルン(ポモージェ、ポメラニア)、より豊かな東側はプロイセン(プルシ、プロシア)と呼ばれていた。 バルト海の西端はスウェーデンとデンマークに挟まれたエーレスンド海峡で、幅はわずか7キロメートルしかない。中世より、この海峡はバルト海沿岸諸国から大西洋、北海への航路上必ず通過するルートであった。そのため、スウェーデンとデンマークでは通行税(エーレスンド海峡通行税)をめぐる争いがあり、海峡には要塞や城が設けられていた。その中で有名な城がデンマーク側にあるクロンボー城(世界遺産)で、シェイクスピアの「ハムレット」の舞台ともなっている。この対立は近世スウェーデンの国家的膨張もその一端であり、スウェーデンは北方戦争の終結を約した1660年のコペンハーゲン条約で通行税の免除を勝ち得ていた。なお、1857年3月14日のコペンハーゲン条約[32]で通行税を廃止してエーレスンド海峡を無税の国際水路とすることが取り決められたため、現在は両国間での争いはなく、船舶は自由に航行できる。
政治
環境
その他ポーランド沿岸部には海水浴場が広がる(西ポモージェ県ミェンヅィズドロイェ)。