バルト海
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最終的に1721年ニスタット条約でロシアはバルト海沿岸地方を獲得し[19]、スウェーデンのバルト海の覇権を打ち破ると共に強大な帝政ロシアが出現した。新たに建設されたサンクトペテルブルクはバルト海地方最大の都市となり、またロシア国内交易網とバルト海交易ルートの結節点のひとつとなり、またロシアの西欧に対する窓ともなった[20]。また、この戦争によって領土を獲得したプロイセン王国も台頭した。バルト海南岸の経済を支えていたバルト・ドイツ人に加え、フランスから亡命してきたユグノーや迫害された新教徒の追放者を東プロイセンに受け入れたため、王国は繁栄に向かった。[要出典]強国となったロシアとプロイセンは、やがて南岸のポーランド(共和国)を緩衝国と見なすようになり、ポーランド継承戦争を経た後、ポーランドとリトアニアは1772年の第一回ポーランド分割1795年の第三回ポーランド分割によって消滅し、西部をプロイセン王国が、東部をロシア帝国が領有することとなった[要出典]。

この頃スウェーデンは、デンマークとロシアに包囲されつつも、1788年から1790年までのロシア・スウェーデン戦争でロシア艦隊に勝利し、バルト海での勢力均衡をある程度回復している。18世紀のバルト海沿岸諸国においては、このロシアとスウェーデンの対立とポーランド分割を除けばほぼ安定していた。しかしこの安定は、1790年代に始まるフランス革命戦争とそれに続くナポレオン戦争の余波によるヨーロッパ全体の動乱に巻き込まれて行くこととなり、ロシア・スウェーデン戦争英露戦争の勃発により、それまでの近世的秩序が崩壊し、バルト海世界は近代への序章を迎えることとなる[要出典]。
近現代

ナポレオン戦争によってスウェーデンは最後に残った属領であるポンメルンおよびフィンランドを喪失し、本土およびノルウェー(スウェーデン=ノルウェー)のみの存在となった。とは言え、スカンディナヴィア半島を幸運にも統一出来たことは、スウェーデンにとって外交政策の選択肢が増えたことを意味していた。ナポレオン戦争後は、中立外交が基本化された時代でもあったが、一方で北欧諸国のナショナリズムが沸き上がった時代でもあった。特に北欧全土を覆った汎スカンディナヴィア主義を利用してスウェーデンは大国復興を目論み、プロイセン王国や帝政ロシアへの牽制を西欧列強と共に行うのである。しかし、汎ゲルマン主義との衝突は、汎スカンディナヴィア主義の挫折に到り、以後、スウェーデンは中立政策を強化していくこととなる。なお、1832年にはイェータ運河が開通し、カテガット海峡スカゲラク海峡を経由して北海へ通ずることとなった。しかし鉄道が導入されたこともあって、イェータ運河はすぐに時代遅れとなった。中世以来スウェーデン領だったフィンランド(スウェーデン=フィンランド)は、フィンランド大公国としてロシア帝国に編入された。ロシア海軍は、1703年以来この海域にバルチック艦隊を設置しており、サンクトペテルブルク近郊のクロンシュタットを本拠地としてバルト海に睨みを利かせていた。1853年に始まったクリミア戦争においては、バルト海でもイギリスフランスとロシアとの戦いが繰り広げられた。1871年にはドイツ帝国が成立し、ドイツとロシアの2大海軍がバルト海において覇を競うこととなった。1895年にはキール運河が建設され、北海とバルト海の距離が大幅に短縮された。1904年日露戦争時にはこの海域のリバウ軍港より日本海に向けてバルチック艦隊が出撃した。翌1905年、スウェーデンとノルウェーの連合は解消され、ノルウェーは独立を果たしたが、この独立をロシアは大いに歓迎している。スウェーデンは中立政策をとったとは言え、ドイツ帝国の興隆を歓迎し、ドイツをロシアからの盾と見なし、ドイツとの友好を計っていた。日露戦争で敗北していたロシアにとって、独露戦争が勃発した際にスウェーデンがドイツに接近し、ドイツ側に立つことを恐れていたからであった。しかし、かかる背景でのノルウェーの分離独立は、北欧の弱体化を意味するものとなった。スウェーデンは以降、「平時の非同盟、戦時の中立」をより高めていくこととなる[21]

第一次世界大戦期には、バルト海もドイツとロシアとの間の戦場となり、バルト海の戦いゴットランド島沖海戦が行われた。第一次世界大戦の結果、フィンランド・リトアニア・ラトビア・エストニアが独立し、また独立したポーランドがバルト海につながる回廊(ポーランド回廊)を獲得してバルト海への出口を手に入れた。この回廊の出口にあたるダンツィヒはダンツィヒ自由都市としてドイツから切り離されたものの、ポーランドには編入されず、これを不満としたポーランドはグディニャ港を建設して独自の海港を手に入れた。これにより、ダンツィヒの重要性が相対的に低下する一方、グディニャはこの後も工業・港湾都市として発展していった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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