バルト海
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1410年タンネンベルクの戦いによってポーランド・リトアニア連合は大勝し、ドイツ騎士団国はこの後衰退を続けて、1525年には世俗化したプロイセン公国としてポーランドに編入された[14]。ポーランドとリトアニアは1569年ルブリン合同を結び、16世紀ヨーロッパに巨大な国家が出現した。この国家は貴族共和政(共和国)であり、バルト海沿岸から黒海沿岸まで影響力を誇ったが、バルト海南岸においては、共和国の庇護によるバルト・ドイツ人自治によって発展・繁栄していった。しかし共和国は、海洋国家ではなく、バルト海に勢力を伸長させるまでには到らなかった。世紀をまたぐ強大国ではあったが、度重なる戦争によって、全般的経済危機を生じつつあり、表面的な黄金時代とは裏腹に、交易等を除いて積極的にバルト海の政治経済に関与することは無かった。なお、共和国の黄金時代は、1648年コサックの反乱1655年に始まる大洪水時代によって終わりを告げた。この戦争にロシアロシア・ポーランド戦争)やスウェーデン(北方戦争)といった周辺大国が介入し、共和国の国土は著しく荒廃した。20年にも渡る戦争によって政治的・経済的大打撃を受けた共和国は、内政改革にも失敗し、その後の一時的な中興も空しく、18世紀末の滅亡へ向かって本格的な衰退の時代に入った。16世紀には、ニシンの群れも海流の変化により完全に北海方面へと移った[15]

バルト海交易で大きな比重を持つようになったネーデルラントは、やがて交易の富を基にオランダ連邦共和国として独立し、17世紀には黄金時代を築き上げる。オランダでは穀物が生育しにくく、穀物のほとんどをバルト海交易から入手していた。またオランダの根幹である造船に必要な木材や亜麻などもバルト海貿易に頼ったため、この貿易はオランダでも非常に重視されており、国の根幹の一つとされていた。この穀物交易はオランダ衰退後も、オランダやイギリス商人たちによって継続され、ダンツィヒリガケーニヒスベルクなどはこの穀物交易、とくにライムギの交易で繁栄した[16]。一方で、ヨーロッパ貿易全体におけるバルト海の地位は、新大陸発見に伴う大西洋・北海方面への交易重心の移動により相対的に低下した。ただし、オランダ海上帝国のように実態はバルト海貿易などヨーロッパ近海に比重を置く国家は近世以降にも継続しており、1523年にデンマークから独立したスウェーデン王国もそうしたバルト海貿易に比重を持つようになった[要出典]。1650年代、最盛期のバルト帝国

そして、こうしたバルト海貿易を巡る国々の中で、17世紀初頭の「北方の獅子」と呼ばれたグスタフ・アドルフのスウェーデンの時代に勢力を伸ばし、およそ1世紀の間バルト海の覇権を握った。この時期のスウェーデン王国を、後世ではバルト帝国、あるいはマーレ・バルティクム(バルト海のラテン語名)と呼び表すようになった。スウェーデンがバルト海での覇権を持った裏には、オランダとの貿易関係があった。スウェーデンは武器などの金属貿易によって西欧との経済関係が築かれたが、その最大の取引相手がオランダだった。しかし、そのオランダとの敵対、競合関係に至ったことにより、スウェーデンは17世紀後半、特にバルト海沿岸諸国を相手とした北方戦争より後に停滞時代を迎えることとなる[17]。この停滞の裏には、北海における三度に渡る英蘭戦争も影響していた。この戦争によってオランダの経済は打撃を受け、オランダ経済の衰退の端緒となった。新たな市場となったイギリスはオランダのような取引相手の主体となることは無かった。それでもバルト海におけるスウェーデンの商業システムは、スウェーデンの海運業の成長を促し、覇権を失った後のスウェーデンの経済的基盤となった[18]。やがてロシアにピョートル大帝が現れ、1700年から大北方戦争を起こし、1703年にバルト海の最奥部に新都サンクトペテルブルクを建設した。この時はまだ、「北方のアレクサンドロス」と呼ばれたカール12世率いるスウェーデンがバルト海沿岸諸国を圧倒していたが、中欧からロシア国内への遠征中、冬将軍とロシアによる焦土作戦にスウェーデン軍は弱体化され、1709年ポルタヴァの戦いでロシアはスウェーデンに大勝し、戦況は一変した。さらに1714年ハンゲ沖の海戦によってスウェーデン艦隊を撃破して、バルト海の制海権を獲得した。最終的に1721年ニスタット条約でロシアはバルト海沿岸地方を獲得し[19]、スウェーデンのバルト海の覇権を打ち破ると共に強大な帝政ロシアが出現した。新たに建設されたサンクトペテルブルクはバルト海地方最大の都市となり、またロシア国内交易網とバルト海交易ルートの結節点のひとつとなり、またロシアの西欧に対する窓ともなった[20]。また、この戦争によって領土を獲得したプロイセン王国も台頭した。バルト海南岸の経済を支えていたバルト・ドイツ人に加え、フランスから亡命してきたユグノーや迫害された新教徒の追放者を東プロイセンに受け入れたため、王国は繁栄に向かった。[要出典]強国となったロシアとプロイセンは、やがて南岸のポーランド(共和国)を緩衝国と見なすようになり、ポーランド継承戦争を経た後、ポーランドとリトアニアは1772年の第一回ポーランド分割1795年の第三回ポーランド分割によって消滅し、西部をプロイセン王国が、東部をロシア帝国が領有することとなった[要出典]。


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