バルト海
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[要出典]このころ、すでにシュレースヴィヒには交易都市ハイタブが建設されており、また「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる、バルト海からノヴゴロドヴォルガ川を通って黒海へ、さらに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた[10]ノース人デーン人が西方の北海方面へ進出したのに対し、スウェーデン人は東方のバルト海方面へと進出したのである。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[11]ハンザ同盟主要交易ルート

12世紀にはいると、バルト海南岸に東方植民運動が起こり、またドイツ騎士団などの騎士修道会によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。北方十字軍とも呼ばれるこの動きによって、西方のドイツからドイツ人が次々と植民を行い、この地域はドイツ化していった。この東方植民により、ドイツ商人もこの地域へと進出し、やがてハンザ同盟を結成してバルト海の制海権を握るようになった。12世紀に設立されたこの同盟は、バルト海南岸のリューベックを盟主とし、ヴィスビューリガダンツィヒなど多くのバルト海沿岸都市が加盟した。このころは海流の影響により、バルト海入口のスコーネ地方において非常に大量のニシンが捕れ[12]、このニシンが同盟諸都市の重要な輸出項目となっていた。ハンザ諸都市は平底で四角い帆のコグ船と呼ばれる船を主に使用し、ニシンの他フランドルの毛織物や、琥珀穀物(主にライムギ)といった特産物をやり取りしていた。奢侈品を多く扱う地中海の南方貿易と比べ、北方貿易と呼ばれるこの貿易では穀物など必需品の比重がきわめて高かった。バルト海最奥部からさらに内陸に進んだノヴゴロド共和国がバルト海航路の東端であり、ハンザ同盟はここに大規模な商館を置いて交易拠点としていた。ヴァルデマー2世時代のデンマーク領

一方、13世紀に入るとそれまで主に北海方面に目を向けていたデンマーク王国が、バルト海沿岸域に進出して一時この地方の覇権を握った。征服王とも呼ばれるヴァルデマー2世時代には、ホルシュタインメクレンブルクポンメルン、さらに海を越えてエストニアも征服し、バルト海を一時デンマークの内海にした。しかし、1223年シュヴェリーン伯ハインリヒによってヴァルデマー2世は捕虜とされ、解放条件として多くの海外領土を喪失。さらに失地を取り戻そうとして1227年北ドイツ諸侯やリューベックと戦い、これにも敗れた。しかしデンマークは以降もバルト海の強国として存在し、やがて新興のハンザ同盟と衝突する。1340年にデンマーク王にヴァルデマー4世が即位すると、エストニアをドイツ騎士団領に売却し、この資金で支配体制を強化。国内を固めると、1361年にハンザの中心都市の一つだったゴットランド島のヴィスビューを占領し、ハンザ同盟と戦争状態に入った。しかしこの戦争は序盤はデンマーク側が優位だったものの、やがて周辺諸国の支援も得たハンザ側が優位に立ち、1370年シュトラルズントの和議においてハンザの勝利が確定し、これによってバルト海はハンザの制海権下に完全におかれることになった。また、この戦争を通じてバルト海側と北海側のハンザ諸都市の連携が成立し[13]、ハンザ同盟は絶頂期を迎えることとなる。デンマークはハンザ同盟に特権を認めさせられたが、領土的損失は無く、ヴァルデマー4世の娘の摂政マルグレーテの元で巻き返しを図ることとなる。

ゴットランド島は、1398年にドイツ騎士団によって征服されるが、1410年ポーランド・リトアニア連合に敗れその庇護を受けることとなり、勢力を無くしたため、エーリク・ア・ポンメルンに売却され、1449年以降は、1645年にスウェーデン領となるまでデンマークの統治を受けることとなった(ゴットランド島は、バルト海最大の島で、ヴァイキング時代からの通商・貿易の拠点として栄えており、ハンザ同盟においても重要な同盟都市であり、また、要塞化されたバルト海での地理的拠点であった)。なお、スウェーデン王国は、1288年にゴットランド島のドイツ商人と島の農民たちとの内戦を鎮圧するなどしていたが、基本的にバルト海での覇を争うほどの力は無く、もっぱらバルト海北部のボスニア湾を通じてフィンランド支配を行っていた(スウェーデン=フィンランド)。また、スウェーデンは基本的に17世紀初頭までハンザ同盟の勢力圏の傘下にあった。しかし1389年にスウェーデン王が廃され、事実上デンマークの支配を受けることとなったスウェーデンは、16世紀の再独立後には、デンマークの影響力のみならず、ハンザ同盟の傘下からの離脱に邁進することとなる[要出典]。
近世

やがて15世紀に入ると、ハンザ同盟の衰退が明瞭になり始めた。進んだ航海技術を持つネーデルラント商人が、それまで波が荒く航行が困難だったエーレスンド海峡を航行して直接北海とバルト海を結ぶ交易を行い始めた。


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