バルト海
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北海からの高濃度の海水の流入は長期間に及ぶことは少なく、短期に集中的に起こることが多い[要出典]。

低水温および低塩分濃度のため、冬季には北部は結氷する。氷結は北端のボスニア湾で10月末から11月初めに始まり、1月末にはフィンランドとオーランド諸島間は氷結して、2月にはボスニア湾およびフィンランド湾は完全に氷結する。この氷は4月中には多くが溶けるが、流氷として6月ごろまで残ることもある[4]。これ以南の海域では結氷しないことも多いが、強い寒波がやってきた年は完全氷結した記録もある。この結氷状態を解消するため、19世紀後半よりバルト海では砕氷船が積極的に使用されてきた。ヨーロッパ初の砕氷船は、1864年にロシアのクロンシュタット港で建造された小型の蒸気砕氷船パイロット号であり、その後1870年代に入るとバルト海沿岸諸港は積極的に砕氷船を就航させ、冬季航行を維持するようになっていった[5]。塩分が薄いため、フィンランドでは夏季にマット等を海で洗濯する場所があるくらいである。


バルト海は右図の通り、14の海域に分割されている。北端の海域はボスニア湾であるが、ここはさらに北のボスニア湾と南のボスニア海とに細分されている。その南側、バルト海主海域との間には、フィンランド自治領のオーランド諸島を境として、東が諸島海、西がオーランド海となっている。この海域は諸島海の名の通り、特に東側には地盤の隆起によってできた無数の島々が点在する。東端はフィンランド湾であり、北のフィンランド、東のロシア、南のエストニアに囲まれた細長い海域である。またこの海域には、東端のサンクトペテルブルク、北のヘルシンキ、南のタリンといった大都市が面しており、船舶の航行も多い。フィンランド湾の南、エストニア領ヒーウマー島サーレマー島と大陸本土との間に広がるのがリガ湾で、その名の通りラトビアの首都リガが面している。これらの海域、およびエーレスンド海峡、ベルト海域を除いたものがバルト海の主海域である。この海域は西のスウェーデン、東のエストニア・ラトビア・リトアニア・ロシア領カリーニングラード州、南のポーランド・ドイツ、西端のデンマークに囲まれている。この主海域にはボーンホルム島(デンマーク)、ゴットランド島(スウェーデン)、エーランド島(スウェーデン)などが浮かんでいる。また、この主海域も、南部のグダニスク湾などいくつかの海域に分かれている。

バルト海は浅く、また氷河期の反動として地盤が隆起を続けているため、上記以外にも島嶼が数多く存在する。とくに北部には小さい島が無数に存在する。南部は島の数こそ少なくなるが、北部に比べ島の面積は非常に広くなる。最も大きな島はゴットランド島であり、域内の南部のほぼ中央に位置している。

外海とはカテガット海峡を経てスカゲラック海峡とつながり、さらに北海を経て大西洋と結ばれている[1]。さらに、白海・バルト海運河白海と、キール運河で北海と結ばれているなど、航路が整備されている。
地史

バルト海が大まかに現在の形となったのは3800年前(紀元前1800年ごろ)と考えられている。最終氷期の最盛期であった2万年前、バルト海地域は現在のバルト海域を中心とする巨大な氷床に覆われていた。この氷床の先端はユトランド半島から北ドイツ平原を通りポーランド北部やリトアニアにまで達していた。現在でもこの地域には、その時期の名残であるモレーン(堆石)が列をなし分布している。氷期から後氷期に入ると氷床は消滅したが、氷河の重みによって旧氷河の中心域は窪地であった。ここにはアンキュルス湖が形成され、さらに海面が上昇し、そこが海と繋がると汽水のリットリナ海(英語版)となり、バルト海の原型が出来上がった。氷床の重みがなくなったため、現在でもバルト海域では地面が上昇を続けており[注釈 3]、特に北部のボスニア湾周辺地域で上昇が激しい[注釈 4]。このままのペースで上昇が続くと100年で1 mの隆起となり、1万5000年から2万年後にはボスニア湾が消滅してしまうとも考えられている[8][注釈 5]
流入河川

河川名平均流量
[m3/s]長さ流域面積
[km2]流域諸国最も長い流路
ネヴァ川2,5000,074 km
(nominal)860 km
(hydrological)281,000.0ロシアフィンランドスナ川(フィンランド語版) (280 km) → オネガ湖 (160 km) → スヴィリ川 (224 km) → ラドガ湖 (122 km) → ネヴァ川
ヴィスワ川1,0801,047 km194,424.0ポーランド、支流: ベラルーシウクライナスロバキア
ダウガヴァ川6781,020 km087,900.0ロシア (源流)、ラトビア
ネマン川6780,937 km98,200.0ベラルーシ (源流)、リトアニアロシア
ケミ川5560,550 km
(ケミ川のみ)600 km
(最長流路)051,127.3フィンランドノルウェー (オウナス川(英語版)の源流)最も長い支流はキティネン川
オーデル川5400,866 km118,861.0チェコ (源流)、ポーランドドイツ
ルーレ川(英語版)5060,461 km025,240.0スウェーデン
ナルヴァ川4150,077 km
(ナルヴァ川のみ)652 km
(最長流路)056,200.0ロシア (ヴェリーカヤ川の源流)、エストニアヴェリーカヤ川 (430 km) → ペイプシ湖 (145 km) → ナルヴァ川
トルネ川3880,520 km
(トルネ川のみ)630 km
(最長流路)040,131.4ノルウェー (源流)、スウェーデンフィンランドヴァルフォヨカ川 "Valfojohka" → キャマヨッカ川 "Kamajakka" → アビスコヤウレ湖(スウェーデン語版) →アビスコヨック川(スウェーデン語版)
(sum = 40 km)→ トルネトラスク湖(英語版) (70 km) → トルネ川

周辺地域の歴史
古代・中世

古代ローマではバルト海南東部をスエビの海 (Mare Suebicum) と呼んでいた。南岸にゲルマン人ともケルト人ともいわれるスエビ族が住んでいたようである。民族移動時代の前は、スエビ族はゲルマニアの最強民族として知られていた民族である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}8世紀以降、スウェーデン人を中心としたヴァイキングヴァリャーグ)が、バルト海を掌握していた可能性が高く、バルト海が「ヴァリャーグ海」と呼称されていた時代もある。[要出典]このころ、すでにシュレースヴィヒには交易都市ハイタブが建設されており、また「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる、バルト海からノヴゴロドヴォルガ川を通って黒海へ、さらに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた[10]ノース人デーン人が西方の北海方面へ進出したのに対し、スウェーデン人は東方のバルト海方面へと進出したのである。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[11]ハンザ同盟主要交易ルート

12世紀にはいると、バルト海南岸に東方植民運動が起こり、またドイツ騎士団などの騎士修道会によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。


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