バルト・ドイツ人
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12世紀には、貿易商人と宣教師たちがバルト・フィン諸語バルト語派を話す支族の住む海岸地域を訪れた。制度的な定住は、12世紀と13世紀に北方十字軍が始まった期間であった。13世紀頃から騎士修道会であるドイツ騎士団リヴォニア帯剣騎士団によるキリスト教化の進展に従い、ドイツ人は東方植民を始め、ベルリンのあるシュプレー川流域からプルーセン人諸部族、スラヴ人諸部族、フィン・ウゴル語族諸部族の居住するヴィスワ川ネマン川流域へ移住した。結果、ドイツ人はバルト地方にリガレヴァル、プロイセン地方にダンツィヒケーニヒスベルクなどの港湾都市を建設した。これらの町はハンザ同盟に加盟したが、ドイツ騎士団の介入によって自治を確立することができなかった。東バルト沿岸地域の騎士は200年の間、神聖ローマ帝国からのサポートがあった。
ポーランド・リトアニアの時代

現ポーランド北東部では反ドイツ騎士団の感情が起こったため、騎士団と何世紀もの間抗争を繰り返した。14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、僧侶と1440年にプロイセン連合を組織、ポーランド・リトアニア連合とプロイセン連合はドイツ騎士団と戦い、15世紀にはドイツ騎士団の勢力はこの戦争で弱まった。1466年に締結された講和条約(第二次トルニの和約)によってポーランド王国西プロイセンを獲得(王領プロイセン)、ドイツ騎士団を東プロイセンへと追いやりドイツ騎士団国を支配した。プロイセン連合に加盟する全ての都市と領土は、ポーランド王を宗主とした自治権を獲得した。リヴォニア(リヴォニア公国(英語版))はドイツ騎士団に従属し、クールラントクールラント・ゼムガレン公国)はリヴォニアに従属した。リヴォニア議会は1561年、ポーランド王兼リトアニア大公ジグムント2世アウグストの庇護を求め、以後リヴォニアとクールラントはポーランド・リトアニア共和国に直接従属、自治を得た。1525年、ドイツ騎士団国はホーエンツォレルン家の公を君主とするプロイセン公国へと転換し、135年後の1660年フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯はプロイセン公国をポーランド・リトアニア王国から独立させた。

1558年、モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)のリヴォニア侵略はモスクワ国家、ポーランド・リトアニア連合スウェーデン王国デンマークの間で20年続いたリヴォニア戦争から始まった。リヴォニアは1621年スウェーデン・ポーランド戦争によって1629年に分割された。北部リヴォニアを征服したスウェーデンは、エストニアと同じくリヴォニアの自治権を維持させている。南部のラトガレはポーランド領リヴォニア(インフランティ公国(英語版))として残留した。北部リヴォニアは1660年にスウェーデン領リヴォニア(英語版)として正式にポーランドから離脱後、すでに北部リヴォニアは1629年から1721年大北方戦争終結による全ロシア領化までスウェーデンの時代に入っていた[3]。また、バルト・ドイツ人の現地支配は、いずれの勢力に属していても維持していたが、ラトガレ地域のみはポーランドの直接統治下となり、他のバルト・ドイツ人の居住地域とは異なった道を歩んだ[4]。デンマークは、サーレマー島を獲得し、スウェーデンはエストニアを獲得した。
宗教改革

バルト地方は、宗教改革の間にプロテスタントに改宗し、貴族騎士により分割された。クールラントはドイツ語圏の国として200年以上存在し、リーフラントは再び分割された。スウェーデン王国はエストニアを1561年から1710年の間、そしてリーフラントを1621年から1710年の間管理した。
その他の地域

タリンリガをはじめとしたスウェーデン王国支配地では、17世紀を通じてスウェーデン絶対主義に支えられ、教育の推進、農民の解放、衰退期のハンザ同盟に替わるバルト海貿易による商業活動によって、バルト地方の繁栄の時代をもたらした。その主役はバルト・ドイツ人であった。特にリガはスウェーデン第2の都市とまで呼ばれ、その公用語はバルト・ドイツ語であった。この時代は、現地人に「幸福なスウェーデン時代」と呼称され、リガ、タリン、ナルヴァなどの都市が発展して行った[5]18世紀大北方戦争の後にロシア帝国に組み込まれた都市でも、バルト・ドイツ人による自治は保たれた。新たな支配者ロシア帝国もまた、バルト・ドイツ人を重用した[6]。そしてこの時代の啓蒙運動によって、エストニア人ラトビア人が民族として自認しはじめた[7]
ロシアの支配 (1710年?1917年)エストニアのヴァーナ(英語版)に残る、バルト・ドイツ人貴族の邸宅跡

1710年から1795年の間、ロシアの大北方戦争ポーランド分割の成功により、バルト・ドイツ人の居住地区はロシア帝国のバルト行政区域(英語版)となった。しかし、バルト地域は地元のドイツ語を話す貴族(元騎士の子孫を含む)、そして西のドイツ公国からの近年の移民により自治は維持されていた。

1803年ナポレオン戦争が勃発して、1807年にプロイセン王国の支配は終了し、1814年にプロイセン王国がナポレオンに勝利した。このナポレオン戦争はドイツ人のアイデンティティーを確立することになったとされるようである。戦時中、ドイツ民族意識の高揚とともに「ドイツ語響く所ドイツであれ」と謳われ、後にはドイツの国歌の中でメーメル川までドイツと歌われるようになった(ゲルマニズム)。しかしこの時代のバルト・ドイツ人の間では、ドイツ民族意識とともに、王侯貴族と中産階級階級対立も同時に存在した。民主化を求めて王侯貴族と対峙した市民は1848年革命を起こし、その結果一定の民主化が行われた。その後1871年ドイツ帝国成立においてはバルト海沿岸の「バルト・ドイツ」も帝国領とされた。

1880年代には、ロシア化でドイツ語の施政や教育に代わりロシア語の使用が促され、ドイツ人のマイノリティの権利は廃止された。1905年のロシア第一革命により、バルト・ドイツ人の地主への攻撃が起こり、領地は燃やされ、貴族階級のメンバーへの殺害や拷問が、通常地元住民でなく外部の革命隊により執行された。バルト・ドイツ人は第一次世界大戦中、ロシア人からは敵と見なされ、ロシアに忠誠心があればドイツ帝国側からは裏切り者扱いされた。
バルト地域国の独立 (1918年?1940年)

1917年にドイツとソ連ブレスト=リトフスク条約を締結した後、ドイツ帝国は占拠領地をオーバー・オスト(英語版)(Ober Ost ドイツ軍東部全軍最高司令官)のもと統治した。

しかしドイツ帝国が第一次世界大戦に敗戦し、ポーランド第二共和国が独立すると、東プロイセンポーランド回廊によって分断される飛び地となった。


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