バルセロナ伯
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1137年、アラゴン王女ペトロニーラと婚約、1150年に結婚。
ラモン・バランゲー1世の墓碑
アラゴン家(1162年から1410年)

ラモン・バランゲー4世はアラゴン女王ペトロニラ(カタルーニャ語名パルネリャ)と結婚し、アラゴンとの同君連合(アラゴン連合王国)を成立させた。2人の息子であるアルフォンス2世はカタルーニャとアラゴンの君主位につき、バルセロナ伯領とアラゴン王国を共に統治した。アラゴン史ではこの王家はバルセロナ家と呼ばれている。

名肖像治世説明
アルフォンス1世
純潔王 (el Cast)
吟遊詩人王 (el Trobador)1162年 - 1196年ラモン・バランゲー4世とアラゴン女王パルネリャの子
ペラ1世
(Pere I)
カトリック王 (el Catolic)1196年 - 1213年アルフォンス2世の子
ジャウマ1世
(Jaume I)
征服王 (el Conqueridor)1213年 - 1276年ペラ1世の子。1258年にコルベイユ条約を締結。これにより、カタルーニャはフランスの属国状態から脱する。
ペラ2世
(Pere II)
大王 (el Gran)1276年 - 1285年ジャウマ1世の子
アルフォンス2世
自由王 (el Franc)1285年 - 1291年ペラ2世の子
ジャウマ2世
(Jaume II)
公正王 (el Just)1291年 - 1327年アルフォンス2世の弟
アルフォンス3世
慈悲王 (el Benigne)1327年 - 1336年ジャウマ2世の子
ペラ3世
(Pere III)
尊儀王 (el Cerimonios)
el del Punyalet1336年 - 1387年アルフォンス3世の子
ジュアン1世
(Joan I)
狩猟王 (el Cacador)
不注意王 (el Descurat)
優雅者の愛好者 (l'Amador de la Gentilesa)1387年 - 1396年ペラ3世の子
マルティー1世
(Marti I)
人文王 (l'Huma)
聖職者王 (l'Eclesiastic)1396年 - 1410年ジュアン1世の弟。男子後継者なしに亡くなる。

トラスタマラ家(1412年から1516年)

マルティー1世の死により、ギフレ多毛伯以来男系で世襲されてきたバルセロナ伯家が断絶した。カスペの妥協に至った2年後、カスティーリャ王家であるトラスタマラ家からフェラン1世を迎えた。フェランの母エリオノールがペラ4世の娘であり、最近親の男子であったためである。

名肖像治世説明
フェラン1世
(Ferran I)
アンテケラ王 el d'Antequera1412年 - 1416年カスティーリャ王フアン1世と王妃エリオノール・ダラゴーの子
アルフォンス4世
寛大王 el Magnanim1416年 - 1458年フェラン1世の子
ジュアン2世
(Joan II)1458年 - 1479年フェラン1世の子。最初の王妃であるナバラ女王ブランカの生んだ王子、ビアナ公カルラスとの対立から、国王派とビアナ公派に分かれて争うカタルーニャ内戦が起きた。
フェラン2世
(Ferran II)
カトリック王 el Catolic1479年 - 1516年ジュアン2世の子。カスティーリャ女王イサベルと1469年に結婚。
ジュアン2世の保持していたアラゴン王とバルセロナ伯の称号は、カタルーニャ内戦(1462年 - 1472年)の間、アラゴン王家の血を引く以下の人物たちによって争われた(バレンシア王の称号は含まれていない):
エンリック4世1462年 - 1463年フアン2世と王妃マリア・ダラゴー・イ・アルブルケルケ(フェラン1世王女)の子。
ペラ4世1463年 - 1466年アヴィシュ家コインブラ公ペドロとウルジェイ女伯エリサベの子。
レナト1世
(Renaut I)1466年 - 1472年アンジュー公ルイ2世ビオラン・ダラゴー(ジュアン1世王女)の子。

アブスブル家(1516年から1700年)

フェラン2世はカスティーリャ女王イサベル1世と結婚し、スペイン王国が成立した。彼の死後、ハプスブルク家の孫カルラスが継いだ。

名肖像治世説明
カルラス1世
(Carles I)1516年 - 1556年フェラン2世の孫
フェリプ1世
(Felip I)1556年 - 1598年カルラス1世の子
フェリプ2世
(Felip II)1598年 - 1621年フェリプ1世の子
フェリプ3世
(Felip III)1621年 - 1665年フェリプ2世の子
収穫人戦争の間、バルセロナ伯の称号をブルボン家のフランス王らが僭称した:
ルイ13世1641年 - 1643年
ルイ14世1643年 - 1652年

カルラス2世
(Carles II)1665年 - 1700年フェリプ3世の子。男子を残さなかったため家系が断絶した。

スペイン継承戦争(1700年から1714年)

スペイン継承戦争の間、スペイン王位(バルセロナ伯位も含む)を請求したのは以下の人物である。

カルラス2世没後、スペイン王位を継承したのはブルボン家フェリプ4世であった。イングランド王国ネーデルラント連邦共和国、オーストリアら大同盟諸国は、対立候補としてハプスブルク家のスペイン王位請求者カール大公(レオポルト1世の子)を推し、軍事支援を行った。カタルーニャは事実上フェリプを受け入れていたが、これをついにやめてしまった。1705年にカール大公はバルセロナに到着し、1706年にスペイン王であることを宣言した。

1705年から1714年まで続いた戦争の結果、カール大公の外国人同盟側が恩恵を受け、カタルーニャとアラゴンの両方にとっては災いとなった。1710年以後、バレンシアとアラゴンにおける独自の政治行政機構と特権が廃止された。1711年、兄ヨーゼフ1世の死により、カール大公は皇帝カール6世として即位するため、オーストリアへ戻った。


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