バルカン半島
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バルカン半島(バルカンはんとう、Balkan Peninsula)、またはバルカン(Balkans)は、東南ヨーロッパにある地理的領域であり、地理的・歴史的に様々な意味合いと定義付け[1][2]の下で使用される概念である[3]。名称はバルカン山脈からきている。この山脈はセルビアブルガリアの国境から黒海沿岸まで、ブルガリア全土を横断している。バルカン半島は北西をアドリア海に、南西をイオニア海に、南と南東をエーゲ海に、そして東と北東を黒海によって区切られている[4]。北側の境界は論者と文脈によって様々に定義されていて不定である。バルカン半島の最高地点はリラ山地(英語版)にあるムサラ山(2925メートル)である。

バルカン半島という概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された[5][6]。彼はバルカン山脈ディナル・アルプス山脈と共にアドリア海から黒海まで東南ヨーロッパを区分していると誤認していた[5]。この地域はかつてオスマン帝国の属領であり、バルカン半島という用語は19世紀にはヨーロッパ・トルコ(European Turkey)の同義語であった[7]。バルカン半島という言葉は地理学的というよりもむしろ地政学的定義を持っており、この傾向は20世紀初頭にユーゴスラヴィア王国が成立するとさらに増した。バルカン半島を定義する自然境界が「半島」の学術的定義と一致していないため、現代の地理学者は「バルカン半島」という考え方を拒絶しており、通常はバルカンを「地域」として議論を行っている。この言葉には(特に1990年代以降)バルカニゼーション(バルカン化)のプロセスと関連して徐々に否定的・侮蔑的意味合いを含むようになっており[4][8]、そのために東南ヨーロッパ(南東ヨーロッパ)という別の用語が使用されている。
名称
地名学

バルカン(Balkan)という言葉はオスマン語のbalkan(森深い山の連なり)から来ている[9][10]。これに関連する用語は他のテュルク系言語でも見られる[11]。このテュルク語の単語の語源ははっきりしないが、恐らくペルシア語のb?lk(泥)とテュルク語の接尾辞an(湿地の森)[12]、またはペルシア語のbal?-kh?na(巨大で高い家)[13]と結びつけられるだろう。
歴史的地名と意味
古典古代と中世初期

古典古代から中世までを通じて、バルカン山脈は現地のトラキア語[14]であるハイモスという名前で呼ばれていた。ギリシャ神話によれば、このトラキアの王ハイモスはゼウスによって罰として山に変えられ、その山に彼の名前が残されたという。語源説も提案されており、D. Dechevはこのハイモス(Haimus、Α?μο?)はトラキア語の*saimon(山の尾根)から派生したと主張している[15]。ハイモスがギリシャ語のhaima(α?μα、血液)から派生したという説もある。この神話はゼウスと怪物/巨人のテュポーンとの戦いに関するもので、ゼウスは雷撃によってテュポーンを負傷させ、その血が山の上に落ちたため、血を意味する単語から山の名前がつけられたという[16]
中世後期とオスマン帝国時代

バルカンという地名への言及の最も早い例は14世紀のアラブの地図に見られ、ハイモス山地(英語版)がバルカン(Balkan)という名前で示されている[17]。西欧において「バルカン」という名称でこのブルガリアにある山地を指して使用していることが証明される最初の用例は、1490年にイタリアの人文学者・作家・外交官であるBuonaccorsi Callimacoが教皇インノケンティウス8世へ向けて送った手紙の中にあるものである[18]オスマン帝国による最初の用例は1565年の日付を持つ文書にあるものである[13]。他のテュルク系部族が既にこの半島に居住するか、あるいは通過していたが、バルカンという用語でこの地域をさしたこれよりも古い文書は存在しない[13]。バルカンの名はまた、初期のブルガール人のテュルク語に起源をもつという説も主張され、ブルガリアで人気がある。しかし、これは非学術的な俗説に過ぎない[13]。バルカンという名称はオスマン帝国のルメリアで使用されており、Kod?j?a-Balkan、?atal-Balkan、Ungurus-Balkani?のように山一般を示す意味で使用されていたが、特にハイモス山地を指して使用される場合が多かった[19][20]。この名前は中央アジアにもBalkan Daglary(バルカン山地)[21]、およびトルクメニスタンバルカン州の名称として残存している。イギリス人旅行者ジョン・モリット(英語版)はこの名称を18世紀の終わりにイギリス文学に導入し、またほかの著作家もアドリア海と黒海の間の広い地域を指す名称として使用するようになった。「バルカン」の概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された[22]。彼はバルカン山脈アドリア海から黒海まで延びる東南ヨーロッパの中核的山岳地形であると誤って認識していた[23][24][4]。1820年代の間に「イギリスの旅行者の間で、なおハイモスと併用されている状況ではあったものの、バルカンという名称は優先的に使用される地名となった。...古典的な地名に慣れ親しんでいないロシア人旅行者の間ではバルカンは好んで使用された用語であった[25]。」
19世紀と20世紀における概念の進化

バルカンという用語は19世紀半ばまで一般的に地理学的文献では使用されていなかった。これはカール・リッターのような科学者たちが、バルカン山脈より南側だけが半島と考えることが可能であり、これは「ギリシャ半島」と改名されるだろうという注意喚起を行っていたためである。ツォイネに同意しない他の目立った地理学者たちにはヘルマン・ワーグナー(英語版)、テオバルド・フィッシャー(英語版)、マリオン・ニュービアン(英語版)、アルブレヒト・ペンクがおり、同時にオーストリアの外交官ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン(英語版)は1869年にバルカン地域を「Sudostereuropaische Halbinsel(南東ヨーロッパ半島)」という言葉で表した。バルカンという用語が一般的に受け入れられなかった別の理由には、ヨーロッパ・トルコという用語が同一の領域を定義していたことがある。しかし、ベルリン会議(1878年)の後には新たな用語が政治的に必要とされ、徐々にバルカンという用語が定着していった。だが、バルカンの地図上の北境はセルビアとモンテネグロにあり、ギリシャは含まれていなかった(バルカンとはヨーロッパのオスマン帝国支配下にある部分のみを描写するものであった)。また、ユーゴスラヴィアの地図ではクロアチアとボスニアが含まれていた。バルカン半島という用語はヨーロッパ・トルコの同義語であり、その政治的境界はかつてのオスマン帝国の属領のものであった[4][24][26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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