バリー・ボイト
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ボイトは、噴火活動が起こったときに保護できる長袖の衣類とマスクが生き残るチャンスを増させたと結論付けた[23]

1989年4月、国際連合災害救済機構から接触を受けた後、ボイトはコロンビアに戻り、ガレラス山に行った。火山の麓にあるパスト市の人々は、ガレラス山の騒音や振動で警告を受けるようになっていた。ガレラス山はネバドデルルイス山より遥かに容易に登れることが分かったが、地雷を埋められた土地が山の斜面の各所にゲリラ軍を隠していた。ボイトはアメリカ地質調査所の地質学者ディック・ジャンダとともにハザードマップを作成した。その危険地帯には幾つか人の住む地域も入っていた。ボイトがガレラス山を離れる前に、思いがけない[24]水蒸気爆発が起こった。ボイトとそのチームはそれを予測できていなかった。パスト市に影響は無かったが、国連の自然災害救済ワークショップに出席していた6人の科学者が死んだ[24]。噴火の前日に得られていた変形のデータを照査した後、ボイトは変形に加速が起きていなかったことを発見した。ボイトはこの水蒸気爆発が起こる前に変形の加速を示していなかったと推量し、火山の監視システムが適切に働いていたことを確認した後に、この地を離れた[10]

ボイトが、セントヘレンズ山の地滑りが側火山(火山の頂上ではなく側面から噴火すること)の噴火を促進することをしっかりと予測していたことが、モントセラトの政府の注意を惹いた。1996年3月、スーフリエール・ヒルズ火山の溶岩ドームが膨れていることを心配し、島の政府はボイトに噴火を生むかもしれない地滑りの可能性を評価するよう求めた。ボイトはクレーターが崩壊する可能性は低いと思ったが、約3分間でプリマス市に到達する可能性がある火砕流に関する心配を表明した。山腹にあるプリマス市と村1つの住民が避難し、それから3年以内に火砕流が放棄されていた場所を襲った[9]。これらの噴火に続いて、ボイトはモントセラト政府に助言を行うリスク評価パネルのメンバーとなり、科学者のチームとともにカリブ海安山岩溶岩島精密地震測地学観測所 (CALIPSO) を共同設立した。ボイトは、イギリスブリストル大学の地球科学者スティーブン・スパークスとともに島で研究を継続し、大洋における地震波と爆発を使ってスーフリエール・ヒルズを解析する試みとしてSEA-CALIPSO観測所を設立した。この研究で多くの発見があった中でも、モントセラトの西側の下に北西に向かう大きな断層があることを見つけた[9]

ボイトはその学生たちとともに、火砕流、火山に起因する地震動、火山岩屑なだれ、火山噴火予知を解析した。また、ダム、トンネル、原子力発電所のための地質工学コンサルタントも務め、フランスインドソマリアパプアニューギニアカナダ[5]トルコで、さらにアメリカ合衆国で土木工学的プロジェクトの計画を援けた[7]。ボイトの研究は、溶岩ドームの崩壊、成層火山、活火山の監視、火砕流に興味が及んでおり、アイスランド、コロンビア、日本カムチャッカ半島インドネシア西インド諸島イタリアチリにまで足を運んだ[25]。土木工学の知識と地質学の概念を組み合わせ、深成岩の歪を測るために、現在広く使われている非弾性歪回復手法を開発した[7]。地質学者のチームとともに、物質欠陥予測手法も開発し、山の周辺の地震と変形のデータにおける変化に基づいて、火山の噴火時期を予測した[26]。現在はアメリカ地質調査所の火山危険性対応チームのメンバーであり、日本、フィリピン、インドネシア、チリで噴火の恐れがある火山に対応している[9]
認知と遺産

ボイトはその経歴を通じて、地質学と火山学の教授、またそれら学者としての専門的業績に対し、多くの表彰や賞賛を得てきた。1984年、イギリス土木学会がボイトにジョージ・スティーブンソン・メダルを授与した[5]。これは、ボイトの提出した論文の中でもその「学会誌に掲載された最良の論文」を認知したものである[27]。同年、アメリカ合衆国岩石力学に関する全国委員会から、「岩石力学における研究について重要でオリジナルな貢献を果たした」として賞を受賞した。1985年、フィリピンのマヨン山の監視に貢献したことついて、その差し迫った噴火で脅威を与えられているレガスピ市にとって重要なものと認められた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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