バリー・ボイト
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

これはアルメロでいかに火山の危険性管理が失敗したかを分析していた[10]
その後の研究

1988年、ボイトがインドネシアジャワ島にあるムラピ山で研究を始めたとき、その存在は火山学者にもあまり知られていなかった。スミソニアン博物館が1981年に発行した『世界の火山』からも省かれていたが、1996年時点でその斜面には100万人近い人々が住んでいた。ボイトは火山の中の動きを記録する計器を取り付け、火山の観察について地元の科学者を教育した[23]。1989年7月、アメリカ国立科学財団の自然および人工危険性緩和部から、ムラピ山での噴火を予測するという提案に対して25万ドルの助成金を得ていた[10]。その資金が尽きた後で、一時的に研究を中断していた。1994年、この火山の噴火から火砕流を発生させ、結婚式の招待客を含め63人が死んだ。この噴火を23人が生き残った。ボイトは翌年ムラピ山に戻り、死者と生存者のデータを比較し、火傷を負った場所の程度、衣類の損傷、肺が受けた損傷などを調べた。ボイトは、噴火活動が起こったときに保護できる長袖の衣類とマスクが生き残るチャンスを増させたと結論付けた[23]

1989年4月、国際連合災害救済機構から接触を受けた後、ボイトはコロンビアに戻り、ガレラス山に行った。火山の麓にあるパスト市の人々は、ガレラス山の騒音や振動で警告を受けるようになっていた。ガレラス山はネバドデルルイス山より遥かに容易に登れることが分かったが、地雷を埋められた土地が山の斜面の各所にゲリラ軍を隠していた。ボイトはアメリカ地質調査所の地質学者ディック・ジャンダとともにハザードマップを作成した。その危険地帯には幾つか人の住む地域も入っていた。ボイトがガレラス山を離れる前に、思いがけない[24]水蒸気爆発が起こった。ボイトとそのチームはそれを予測できていなかった。パスト市に影響は無かったが、国連の自然災害救済ワークショップに出席していた6人の科学者が死んだ[24]。噴火の前日に得られていた変形のデータを照査した後、ボイトは変形に加速が起きていなかったことを発見した。ボイトはこの水蒸気爆発が起こる前に変形の加速を示していなかったと推量し、火山の監視システムが適切に働いていたことを確認した後に、この地を離れた[10]

ボイトが、セントヘレンズ山の地滑りが側火山(火山の頂上ではなく側面から噴火すること)の噴火を促進することをしっかりと予測していたことが、モントセラトの政府の注意を惹いた。1996年3月、スーフリエール・ヒルズ火山の溶岩ドームが膨れていることを心配し、島の政府はボイトに噴火を生むかもしれない地滑りの可能性を評価するよう求めた。ボイトはクレーターが崩壊する可能性は低いと思ったが、約3分間でプリマス市に到達する可能性がある火砕流に関する心配を表明した。山腹にあるプリマス市と村1つの住民が避難し、それから3年以内に火砕流が放棄されていた場所を襲った[9]。これらの噴火に続いて、ボイトはモントセラト政府に助言を行うリスク評価パネルのメンバーとなり、科学者のチームとともにカリブ海安山岩溶岩島精密地震測地学観測所 (CALIPSO) を共同設立した。ボイトは、イギリスブリストル大学の地球科学者スティーブン・スパークスとともに島で研究を継続し、大洋における地震波と爆発を使ってスーフリエール・ヒルズを解析する試みとしてSEA-CALIPSO観測所を設立した。この研究で多くの発見があった中でも、モントセラトの西側の下に北西に向かう大きな断層があることを見つけた[9]

ボイトはその学生たちとともに、火砕流、火山に起因する地震動、火山岩屑なだれ、火山噴火予知を解析した。また、ダム、トンネル、原子力発電所のための地質工学コンサルタントも務め、フランスインドソマリアパプアニューギニアカナダ[5]トルコで、さらにアメリカ合衆国で土木工学的プロジェクトの計画を援けた[7]。ボイトの研究は、溶岩ドームの崩壊、成層火山、活火山の監視、火砕流に興味が及んでおり、アイスランド、コロンビア、日本カムチャッカ半島インドネシア西インド諸島イタリアチリにまで足を運んだ[25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef