バブル景気
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当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。

当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国G5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸した。日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされた。

このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ(最終的には2.5%)、長期的に金融緩和を続けた[10]。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたとされている[10]

中曽根内閣貿易摩擦解消のため、国内需要の拡大を国際公約し(前川リポート)、これまでの緊縮財政から一転させた。5回の利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一公共事業拡大に踏み切った[12]。また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採った[13][14]。そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招いた[15]。一方、翌年以降は緩和へと転じ公定歩合を2.5%まで引き下げ、その後も低金利を続けたが、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であった[16]。1989年に所得税の国税地方税を合計した最高税率が88%から75%に引き下げられ、富裕層を中心に手取り所得の急増による資金供給があるとともに、インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴って土地や株式への投資を活発化させた。日銀の金融政策は、卸売物価・消費者物価を基準に考えるという伝統的な考え方が支配的であったため、日銀は地価は土地対策で対処すべきという立場であった[17]

それ以外に1986年初めに原油価格が急落し、交易条件が改善した。このことによる交易利得は、1987年5月の緊急経済対策とほぼ同規模となる大きなものとなり、景気を刺激したとされている[18]経済学者田中秀臣は「原油価格の下落などの要因を、日本経済の潜在能力が向上したと誤って過大評価してしまい、日本はバブル時代へと突入していった」と指摘している[19]

「日本銀行調査月報」(1992年9月)は、バブルの原因について「土地担保価値の拡大」を挙げ「多くの金融機関が業務拡大を目指したことにより、M2+CDの伸び率を高めた」と述べている[20]

1985年5月に国土庁は「首都改造計画」を公表し、「東京のオフィスは2000年までに合計5000ヘクタール、超高層ビルで250棟分必要となる」と指摘した(当時のオフィス供給量は年間130ヘクタール)[21]。国土庁のレポートの意図は「地価高騰の抑止」であったが、その意図とは逆に不動産会社ゼネコンは「オフィス供給は国策となった。都心の用地を確保せよ」と一斉に飛びつき、やがて「地上げ屋」を生んだ[22]国土庁のレポートはバブル醸成の一因となった[23]

ベンジャミン・フルフォードは、和佐隆弘(元日経新聞論説委員)の言葉を借りて、1963年当時の自治省が地価の大幅な値上がりに対して、固定資産税の課税上昇率を抑えたために、土地が「最も有利な投資対象」となってしまったことを日本の土地神話ないしバブルの遠因として挙げている[24]

三角大福はオイルショックや自民の内紛で2年周期で総理が交代していたが、中曽根は5年ほど総理を務めて政治が安定していたこともバブル景気の主因となった。
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日経平均株価(月末値)。1989年12月29日の東証大納会で日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録、1990年1月4日の大発会から株価の大幅下落が始まる。

1985-1990年度の5年間で日本の金融機関の資金量は90%拡大し、貸出先の開拓に追われていた[25]

1980年代後半、エクイティファイナンス(新株発行にともなう増資)の隆盛は大企業の銀行離れを加速させ、銀行は行き場のない資金をだぶつかせていた[26]。プラザ合意以降、金利低下に拍車が掛かった。金利自由化の影響により、銀行は従来のやり方では利ざやが稼げなくなっていた[27]。1987年末には都銀の収益を支えていた製造業向けの貸出が初めて2割を割った[28]

企業は設備投資を積極的に行っていたが、その資金は銀行の長期融資に依存せず、エクイティファイナンスでまかなっていたため、金融機関の融資は不動産に向かった[25]。日本では投機熱が加速、特にと土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」「土地の値段は決して下がらない」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。1985年3月末から1993年3月末にかけて、全国銀行の貸出は251兆円から482兆円へと増加している[29]。資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aが進められた。企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだ。

日本の1人あたりの国民所得はアメリカに次ぐ第2位となった。1985年9月30日に横浜駅東口に当時世界最大級の百貨店そごう横浜店が開業した。

三大都市圏における地価は1986年から上昇し、1987年には東京都の商業地で対前年比で約80%となった[30]

1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延した。特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌を賑していた。

1988年秋に来日したアラン・グリーンスパンFRB議長は、日本銀行にて「日本の株価は高過ぎるのではないか」と述べていた[31]


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