バビロン
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バビロンに関する主な情報源 ― 遺跡の発掘、メソポタミアの他の地域で発見された楔形文字文書、聖書、古代の文書(とりわけヘロドトス)における記述、あるいは(クテシアスベロッソスなどの文書の)引用による文書など ― をつなぎ合わせても、その完全な実像に迫ることは難しい。史料同士が相互に矛盾さえしており、その辺りの事情は、都市が最盛期であった紀元前6世紀についても同様である[6]。2019年、ユネスコはバビロンを世界遺産に登録した[7]。この場所には毎年何千人もの人が訪れ、そのほぼ全てがイラク人である[8]。周辺では開発が急速に進んでおり、遺跡への浸食が起きている[9][10][11]
呼称

その名はアッカド語で「神の門」を意味するバーブ・イリ(ム)(????、B?b-ili(m)[注釈 1])に由来する。古代ペルシア語: ??????? B?biru?、古代ギリシア語: Βαβυλ?ν Babyl?n、ヘブライ語: ??????‎ B?vel、アラビア語: ????‎ B?bil などはその借用である。バビロニア古代ギリシア語: Βαβυλων?α Babyl?nia)の語はバベルにもとづく。
シュメール語の「神の門」に由来するという説

アーチボルド・セイスが1870年代に述べたところによると、バブ・イル(Bab-ilu)またはバブ・イリ(Bab-ili)は、比較的早期のシュメール語の名前であるカ・ディミラ(Ca-dimirra)の翻訳であると考えられる(以前は、テューラニア語系に属すると提唱されたが、現在ではこの説は採用されていない)。カ・ディミラ(Ca-dimirra)は「神の門」を意味し[12][13]、「KAN4 DI?IR.RAKI」(シュメール語の言葉「カン・ディグラック(kan di?irak) = 神の門」に相当する)またはその他の文字に由来する[14]

ドイツの学者ディーツ・オット・エドザードによると、街はもともとはバビラ(Babilla)と呼ばれたが、ウル第三王朝の頃までには語源の思索のプロセスを経て、「神の門」(バブ・イル Bab-Il)を意味するバブ・イリ(ム)(B?b-ili(m))になったとする[15]
「神の門」由来の否定説

「神の門」という訳は、意味が判然としない非セム語の地名を説明するための民間語源だという考えも強まっている[16]。言語学者イグナス・ジェイ・ゲルブは、バビルまたはバビラ(Babil / babilla)という名前は都市の名前の根本部分だが、その意味と起源は未知とすべきだと1955年に提案した。理由として、他のよく似た名前の場所がシュメールにあったことと、シュメール語の地名がアッカド語の翻訳に置き換えられた例が他に無いことを挙げている。イグナス・ゲルブの説では、バビル(またはバビラ)は、後にアッカド語のバブ・イリ(ム)(B?b-ili(m))に変形したのであって、シュメール語のカ・ディグ・イラ(Ka-dig?irra)はむしろ逆に、バビルまたはバビラからの翻訳であるとの結論に達した[17][18]
聖書における名前

聖書では、その名は「バベル」として登場する。創世記では、「混乱する」を意味するヘブライ語の動詞ビルベル(bilbel)から、「混乱」という意味で説明されている[19][20]。現代の英語の単語「babble」(意味の無いことを話す)は、一般にはバベルという名前に由来すると考えられているが、直接の関係は無い[21]
他の都市をバビロンと呼んだ例

古代の記録の中では、「バビロン」を他の都市の名前として用いている例がある。例えば、バビロンの影響圏にあるボルシッパをそう呼んだ例や、アッシリアがバビロンを占領・略奪した後の短期間、ニネヴェのことをバビロンと呼んだ例がある[22][23]
バビロンの再発見

紀元19世紀初めになると、古代メソポタミア地方における発掘作業が始まり、その後の数十年でさらに活発になった。遠征隊による発掘の場所はアッシュル、ニムルド、ニネヴェなど、アッシリア帝国の首都に関する場所が多かった。これは、他の場所よりも遺跡が目立っていたことにもよる。その名前の重要性のゆえに、一連の遠征の後半になると、バビロンにおける発掘も行われるようになった。これらの遠征は、当時の気鋭の考古学者から成るチームによって実施された。これに続いて19世紀後半には、市の遺跡をさらに調査するための遠征が行われたが、それらの場所のほとんどは今もなお調査されていない。しかも、イラク政府がその計画を実施した結果、史跡のいくつかは再建と修復を必要とすることがわかり、かつ、当時のイラクの政治情勢により、発掘の実施は困難となっていった[9][10]
地勢バビロンの地図。主な場所と現代の村も記載1932年当時のバビロン

ユーフラテス川の両岸に沿って建設された古代都市は、川の季節的な洪水を防ぐための急な堤防を備えていた。街の遺跡は現在のイラクのバグダッドの南約85 km、バビル県のヒッラにあり、壊れた泥レンガの建物やがれきの山から成る[13]。バビロンの遺跡は、ユーフラテス川の東側の南北方向約2キロメートル× 1キロメートルの地域を埋める多数の丘で構成される。もともと街は川で二分されていたが、その後、川の流れが変わり、かつての街の西部の遺跡のほとんどが浸水した。川の西側の城壁の一部は、今もなお残っている。

これまでに発掘されたのは、古代都市のごく一部(内壁内の面積の3%、外壁内の面積の1.5%、古バビロン・中期バビロンの深さに対して0.1%)のみである[24]。既知の遺跡は次のとおり。

カスル(Kasr):宮殿または城とも呼ばれ、新バビロニアのエテメナンキ(エ・テメン・アン・キ)のジッグラトがある場所であり、遺跡の中心にある。

アムラン・イブン・アリ(Amran Ibn Ali):南にある、丘の最高地点。高さ25メートル。マルドゥクの神殿であるエサギラの遺跡であり、エアとナブーの神殿もある。

ホメラ(Homera):西にある、赤みがかった丘。ヘレニズム時代の遺跡のほとんどはここにある。

バビル(Babil):遺跡の北端にある、高さ約22メートルの丘。そのレンガは古代から略奪されてきた。ネブカドネザルによって建てられた宮殿があった。

考古学者は、新バビロニア時代以前の人口遺物のほとんどを復元できていない。この地域の地下水面は何世紀にもわたって大幅に上昇しており、新バビロニア帝国以前の遺物は現在の標準的な考古学的手法では発掘できない。さらに、新バビロニア人はバビロン市内で重要な再建事業を実施したが、これにより、それ以前の時代の多くの記録を破壊または埋没させてしまった。バビロンは、外国の支配に何度も反抗してきた。主なものとしては紀元前2千年紀にはヒッタイト人とエラム人に対して、紀元前1千年紀には新アッシリア帝国とアケメネス朝に対して反乱を起こしたが、鎮圧される度に略奪が繰り返された。バビロン市の西半分の多くは現在、メソポタミア川の下にあり、また、遺跡の他の部分は営利的建築資材として採掘されてきた。

コルデウェイだけが、発掘調査により古バビロニア時代の遺物を回収した。この中には、民家から発掘された、シュメール文学と語彙文書が刻まれていた967枚の粘土板が含まれていた[24]

バビロンの近くにある古代の居住地としては、キシュ、ボルシッパ、ディルバト、クターがある。マラドとシッパルは、それぞれユーフラテス川に沿って60kmの距離にあった[24]
史料

バビロンに関する主な史料 ― 遺跡そのものの発掘、メソポタミアの他の場所で見つかった楔形文字文書における言及、聖書における言及、他の古典文書(特にヘロドトスによる)における説明、古典文書の中における引用(クテシアスとベロッソスの作品を引用)による説明 ― は、紀元前6世紀の都市最盛期の時代のものでさえ、当時のことを知るには不完全で、時には矛盾している[25]。バビロンは、クテシアス、ヘロドトス、クイントス・クルティウス・ルフス、ストラボン、クレイタルコスなど、多くの古典的な歴史家によって説明され、そのうち実際に訪問した者もおそらくいた。これらの報告の精度はさまざまであり、一部の内容は政治的な動機に基づいているが、それでも有用な情報を提供してくれる[26]

だが、バビロンの初期の様子を知るためには、これらの史料では足りないため、ウルク、ニップル、シッパル、マリ、ハラダムなど、他の場所で見つかった碑文の情報を統合する必要がある。
初期の言及

小さな町としてのバビロンについての最も初期の言及は、現在わかっているものとしては、アッカド帝国のサルゴンの治世(紀元前2334-2279年)の粘土板に遡る。バビロン市への言及は、紀元前3千年紀後半のアッカド語とシュメール語の文学に見られる。最も初期のものとしては、アッカドの王シャル・カリ・シャッリがバビロンにアンヌニトゥム(Ann?n??tum)とイラバ(Ilaba)のために新しい神殿の基礎を築いたことを説明する粘土板がある。


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