1990年頃からキャベンディッシュに感染するフザリウム菌病(パナマ病)が世界中で流行し始め、この栽培バナナが絶滅しないかどうか危ぶまれている。そこで遺伝子組み換えによってバナナの新しい品種を作成する試みも行われている。栽培バナナは不稔で花粉や種子ができないため、導入された遺伝子が外界に広がって遺伝子汚染を引き起こす可能性は低く、遺伝子組み換え作物に適していると言われる[13]。また、皮をむけば衛生的であり乳幼児でも摂食できるので、バナナ果肉中に抗原を生産させ、経口ワクチンとして利用するための開発が進められている。衛生環境が悪く、電力が不安定でワクチン保存環境も悪い所でも、現地において衛生的で再生産可能な経口ワクチンになるのではないかと期待されている。 原産地は東南アジアで、マレー半島から熱帯地方の各地に伝わったとされる[9]。バナナの栽培の歴史はパプアニューギニアから始まったと考えられている[14]。日本へは台湾から渡ったといわれている[9]。 パプア・ニューギニア高地のワギ渓谷にあるクック遺跡での発掘によって、オーストロネシア人の到来以前の完新世前期にオーストラリムサ(Australimusa)というニューギニア在来種が人の手によって栽培されていたいくつかの証拠が見つかっている[15]。東南アジアからニューギニアにかけての地域で栽培化されたバナナは、マレー・ポリネシア系民族が太平洋の島々に移住していくに連れて、それらの島々にも広がっていった。 また、西のインドにも栽培化から日を置かず伝播していった。このため、東南アジアからインドにかけての地域においては現在の主要品種以外にも多くの種類のバナナが存在している。東南アジアにおいては、より安定し貯蔵性にも優れたうえ収穫量も高いイネという植物が出現したため、原産地であるにもかかわらずバナナの重要性は限定的なものとなった。一方、伝播した先のオセアニアやアフリカにおいてはバナナをしのぐ栽培植物が出現しなかったため主要な食糧のひとつとなり、非常に重要な地位を占めることとなった[16]。 ダン・コッペル著『バナナの世界史』[11] によると、古代のインド以西の中東地域において、バナナはイチジクと呼ばれていた。マケドニア人のアレクサンドロス3世はインド遠征でバナナを見た時、これをイチジクと記したとされる。また、アラビア語で書かれた『コーラン』(イスラム教の聖典)に出てくる楽園の禁断の果実「talh」はバナナと考えられており、ヘブライ語『聖書』では禁断の果実は「エバのイチジク」と書かれているとされる。このことから、実は『創世記』に出てくる知恵の樹の実は、通説のイチジクではなくバナナであったとする仮説がある。なお知恵の樹の実をリンゴとする俗説はこれより後世の誤訳に由来する。確かなことは、リンゴは寒冷な中央アジア原産とされ、エデンの園があったとされるペルシャ湾岸では育たないということである。 一方、西のアフリカ大陸にも、マレー系民族の移住したマダガスカルやアフリカ大陸東岸から紀元前後にバナナが伝播した。バナナは熱帯雨林でも栽培ができ、それまでの主作物であったヤムイモに比べて手間もかからず収量も多いため、コンゴ盆地や西アフリカの熱帯雨林地域に急速に広がっていった。コンゴ盆地には5世紀に到達し、これによって熱帯雨林に農耕民が展開することが可能になり、さらに余剰を生み出すことで人口が増加し、交易や文化が発達していった[17]。 大航海時代、アメリカ大陸がヨーロッパ人により"発見"されて移民が始まると、1516年にスペイン領カナリア諸島からカリブ海のイスパニョーラ島にバナナが導入された[18]。奴隷貿易によってアメリカに移住させられた奴隷の故郷はバナナ生産地域であり、彼らによってバナナはカリブ海や中南米の熱帯地域へと広まった。 ここまでの伝播は主食用の用途を主目的としており、ハイランド・バナナやプランテン・バナナの伝播の歴史であって、果物バナナはそれに付随して伝播していった。これが大きく変わるのは、19世紀の後半にアメリカ合衆国の資本が果物バナナの大規模なプランテーション栽培に乗り出してからである。マイナー・キースの創立したユナイテッド・フルーツ社が1874年にコスタリカに農園を作ったのを皮切りに、大企業が中南米へと進出し、広大な未耕地を開発して大農園を作り上げた。
歴史
主食として
大量生産の時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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