深作は1999年に公開された前作『おもちゃ』を撮影の間、女性映画を撮る難しさに悩んでいた[7]。『おもちゃ』に助監督として参加した深作健太も世紀末の映画界がシネコンやデジタル化に移行していく中、テレビ局の力で簡単にヒットが生まれていく日本映画界に幻滅し、その後仕事を休んで引きこもっていた[7]。その間、本や漫画ばかり読んでいて『バトル・ロワイアル』にも触れていた。大島渚が『御法度』を撮ったり、篠田正浩が『梟の城 owl's castle』を撮ったりと、欣二と同世代のベテラン監督陣が現代劇を撮らなくなっていた頃であったが、一方で欣二はずっと現代の青春群像劇にこだわって映画を作ってきたため、『おもちゃ』が終わり、寄る年波を意識して『バトル・ロワイアル』に初期衝動が強く表れたといえる[7]。健太は「深作欣二がマスメディアで当時盛んに話した『戦争体験きっかけ』は後付け。暴力衝動を通じて、絶えずリアルな今の青春群像を描いてきた深作欣二が、自分のテーマに持ち込めると直感的に察知して『バトル・ロワイアル』に飛びついたんだと思う」[7]「和製アクション映画なんかほとんど作られなくなっていた世紀末に、中学生を主役にバイオレンス映画を撮るという企画自体が親父にとってコロンブスの卵だった。でも正直言うと70のジイサンが現代の15歳の中学生を演出できるのかという不安があり、全然リアリティーのないビックリ映画になる可能性が大なのではと思っていた」などと話している[7]。
健太は一念発起し、父と一緒に東映に企画を持って行くが、東映はこれを拒否。健太は東映幹部にトイレに呼び出され「親父に物騒なもん撮らすんじゃない」と説教されたという。ところが当時映画営業部門担当だった岡田裕介(現東映会長)だけが「3億円の予算のうち半分を東映で出すから、あと半分は健太が集めて来い」と助言。「ただの助監督の俺が、いきなりプロデューサーっすか?」と聞いたところ「いや、人質だ。いくら深作欣二でも息子を人質に取られたら赤字出せないだろう」「俺も27歳の時『吶喊』でプロデューサーやったんだから、お前もできるだろ」と言われた。健太は様々な会社を駆け回って1.5億円をかき集め、1999年秋、製作が決まった[7]。
映倫からは「ヤクザ映画や時代劇はいくら人を殺しても構わない。それは現実世界と遠いから。ただ中学生同士の殺し合いは現実的だから止めてくれ」と言われ揉める形となった[3]。 1990年代終わりから2000年にかけて「セカイ系」の小説や漫画が増えていたが、本作は「デスゲーム映画」としてエンタテインメントとして受け止められた[7]。脚本の健太は「セカイ系」を分からず、むしろ現実に生きている社会とどうリンクさせるかを注意してシナリオを書いた。多くのサブカルチャーから影響を受け、映画では勿論、父親の作品からの影響が一番強いが、フィクションの中に、現実の何かを撃てる暴力を秘めたドラマが好きで、本作のシナリオでは、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』と石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』を意識したと話している[7]。原作の舞台は「大東亜共和国」という架空の国家だが、映画では現実とリンクすることにこだわり、〈少年犯罪〉や〈学級崩壊〉、〈ひきこもり〉とリンクさせた。60年代や70年代には東映を始め、日本映画が幾らでも作っていた過激な映画をプロデューサーとして深作欣二に作って欲しかったという[7]。結果的に社会に対して挑発するような娯楽映画はメジャー作品では本作が最後になった[7]。 キャスティングその他、製作は1999年秋から始まった[7]。健太はまず企画書を作ったが、「原作ではゲーム担当教官役に坂持金発と書いてあるけど、本当に武田鉄矢さんに出演交渉するべきか?」と悩んでいたところ、監督の「たけしとやりたい」という言葉によって教官役はビートたけしに決定。健太が1999年秋にたけしに出演交渉に行ったところ「いいよ。深作さんなら。スケジュールはいつがいい?」と快諾してくれたので「来年の夏下さい」と依頼し2000年夏のスケジュールを押さえたという。
脚本
キャスト