バトル・ロワイアル_(映画)
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深作は本作品を制作するに至ったきっかけを問われ、太平洋戦争中、学徒動員によりひたちなか市軍需工場で従事していた中学3年生当時(旧制中学校の教育課程制度下であるが、学齢は現制度での中学3年生と同じ)、米軍の艦砲射撃により友人が犠牲になり、散乱した遺体の一部をかき集めた際に生じた「国家への不信」や「大人への憎しみ」が人格形成の根底にあったこと、今日の少年犯罪の加害者少年の心情を思うと他人事でないという感情を抱いてきたことから、いつか「中学3年生」を映画の主題に取り上げたいと考えていたところに、深作の長男で助監督だった深作健太が薦めた原作本の帯にあった「中学生42人皆殺し」のキャッチコピーを見て、「あ、こりゃいけるわ」「面白そうじゃねぇか」と思い立ったと答えている[6][7]

深作は1999年に公開された前作『おもちゃ』を撮影の間、女性映画を撮る難しさに悩んでいた[7]。『おもちゃ』に助監督として参加した深作健太も世紀末の映画界がシネコンデジタル化に移行していく中、テレビ局の力で簡単にヒットが生まれていく日本映画界に幻滅し、その後仕事を休んで引きこもっていた[7]。その間、本や漫画ばかり読んでいて『バトル・ロワイアル』にも触れていた。大島渚が『御法度』を撮ったり、篠田正浩が『梟の城 owl's castle』を撮ったりと、欣二と同世代のベテラン監督陣が現代劇を撮らなくなっていた頃であったが、一方で欣二はずっと現代の青春群像劇にこだわって映画を作ってきたため、『おもちゃ』が終わり、寄る年波を意識して『バトル・ロワイアル』に初期衝動が強く表れたといえる[7]。健太は「深作欣二がマスメディアで当時盛んに話した『戦争体験きっかけ』は後付け。暴力衝動を通じて、絶えずリアルな今の青春群像を描いてきた深作欣二が、自分のテーマに持ち込めると直感的に察知して『バトル・ロワイアル』に飛びついたんだと思う」[7]「和製アクション映画なんかほとんど作られなくなっていた世紀末に、中学生を主役にバイオレンス映画を撮るという企画自体が親父にとってコロンブスの卵だった。でも正直言うと70のジイサンが現代の15歳の中学生を演出できるのかという不安があり、全然リアリティーのないビックリ映画になる可能性が大なのではと思っていた」などと話している[7]

健太は一念発起し、父と一緒に東映に企画を持って行くが、東映はこれを拒否。健太は東映幹部にトイレに呼び出され「親父に物騒なもん撮らすんじゃない」と説教されたという。ところが当時映画営業部門担当だった岡田裕介(現東映会長)だけが「3億円の予算のうち半分を東映で出すから、あと半分は健太が集めて来い」と助言。「ただの助監督の俺が、いきなりプロデューサーっすか?」と聞いたところ「いや、人質だ。いくら深作欣二でも息子を人質に取られたら赤字出せないだろう」「俺も27歳の時『吶喊』でプロデューサーやったんだから、お前もできるだろ」と言われた。健太は様々な会社を駆け回って1.5億円をかき集め、1999年秋、製作が決まった[7]

映倫からは「ヤクザ映画時代劇はいくら人を殺しても構わない。それは現実世界と遠いから。ただ中学生同士の殺し合いは現実的だから止めてくれ」と言われ揉める形となった[3]
脚本

1990年代終わりから2000年にかけて「セカイ系」の小説や漫画が増えていたが、本作は「デスゲーム映画」としてエンタテインメントとして受け止められた[7]。脚本の健太は「セカイ系」を分からず、むしろ現実に生きている社会とどうリンクさせるかを注意してシナリオを書いた。多くのサブカルチャーから影響を受け、映画では勿論、父親の作品からの影響が一番強いが、フィクションの中に、現実の何かを撃てる暴力を秘めたドラマが好きで、本作のシナリオでは、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』と石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』を意識したと話している[7]。原作の舞台は「大東亜共和国」という架空の国家だが、映画では現実とリンクすることにこだわり、〈少年犯罪〉や〈学級崩壊〉、〈ひきこもり〉とリンクさせた。60年代や70年代には東映を始め、日本映画が幾らでも作っていた過激な映画をプロデューサーとして深作欣二に作って欲しかったという[7]。結果的に社会に対して挑発するような娯楽映画はメジャー作品では本作が最後になった[7]
キャスト

キャスティングその他、製作は1999年秋から始まった[7]。健太はまず企画書を作ったが、「原作ではゲーム担当教官役に坂持金発と書いてあるけど、本当に武田鉄矢さんに出演交渉するべきか?」と悩んでいたところ、監督の「たけしとやりたい」という言葉によって教官役はビートたけしに決定。健太が1999年秋にたけしに出演交渉に行ったところ「いいよ。深作さんなら。スケジュールはいつがいい?」と快諾してくれたので「来年の夏下さい」と依頼し2000年夏のスケジュールを押さえたという。たけし演じる教師の役名は自身と同じ「キタノ」となり、深作&たけしの座組となったことで、出資者が増えたという[7]

生徒役のオーディションも1999年秋から開始され、応募総数約6,000名の中から最終的に800名に絞られ、本読みや体力テストに半年を費やし次々とキャストが選ばれていった。最初に決まったのがヒロインの中川典子役の前田亜季で、続いて主人公の七原秋也役の藤原竜也が決定。メインの二人が決まると、そのバランスからどんどん配役が決まっていった[7]。物語上重要な役割を担う転校生の川田章吾と桐山和雄役は山本太郎安藤政信が、その他の主要生徒は柴咲コウ栗山千明塚本高史高岡蒼佑小谷幸弘石川絵里がそれぞれ演じている。最終的なキャストの決定は2000年の4 - 5月[7]で、42名が選ばれた。

当初、中川典子役には岩村愛がキャスティングされていたが、怪我で交代となり、岩村は前回優勝者の少女役としてワンシーンのみ出演した。前田亜季は姉の前田愛とオーディションに参加し、中川典子役に選ばれた[8]。前田愛は本作ではキタノの娘・栞(キタノシオリ)役で声だけの出演だったが『II』では主役に選ばれた。

千草貴子役は柴咲コウ、相馬光子役は栗山千明が演じる予定であった。それぞれ柴咲は千草貴子、栗山は相馬光子のオーディションを勝ち進んでいたが、撮影前になって深作欣二監督の判断で二つの配役を交換。プロデューサーの健太はじめスタッフらは配役変更に反対していた。当時を振り返りプロデューサー陣は「(彼女の本質と光子がかけ離れていたため)まさか柴咲が光子を演るとは思わなかった」と語っている。しかし、出来上がった作品を観てその判断に納得したという。

栗山千明は本作を鑑賞したクエンティン・タランティーノに認められたことから『キル・ビル Vol.1』のキャストに抜擢され、バトル・ロワイアルの出演パートをオマージュしたシーンを自ら演じた。

安藤政信は25歳ながら「深作欣二ファンなので絶対出たい」と売り込みに来た。健太は「川田章吾役をお願いしたい」と頼んだが、台本を読んだ安藤が「いや、殺しまくるほうがやりたい」と希望し、桐山和雄にキャスティングされた[7]。なお、元々の台本では「道ばたの石ころをどかしただけだ…。命は平等に価値は無い…。俺は俺を肯定する。」といった桐山の台詞が書かれていたが、安藤の希望を監督が快諾し、映画の桐山には一切の台詞が無くなった。

川田役には『難波金融伝・ミナミの帝王 破産 金融屋殺し』に出演していた山本太郎の起用を健太が思い立ち、親子で会いに行ったところ、実際は25歳なのに「18歳です」と言い張られ、こちらもキャスティングが決定した。これがまた東映の幹部に怒られたため、川田の設定を以前のバトルの生き残りで留年しているという設定に修正された[7]


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