バテレン追放令
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^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[89]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注 3]
^ 江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[50]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[51]江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[52]
家長権を人主から雇い主へ委譲

転売の自由

身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲

死亡後の処置も雇い主へ一任
中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[53]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[52]
^ 中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[58]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[59]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[60]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[61]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[60]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[62]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[63]。最新の研究ではアジア人奴隷(または年季奉公人)は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[64][65]
^ 八家九宗のことで、日本に広まった仏教の南都六宗倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗華厳宗)に、天台宗真言宗を加えて8つとし、さらに禅宗あるいは浄土宗を加えた9つの宗派を指す。
^ a b キリスト教に敵対的な領主は領内の十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたり(1564年十月十四日)[72]、1563年十一月七日頃には修道院とキリシタンの農民たちの家を燃やした[73][74]。1573年には教会が焼き払われている[75]。このようにキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していた[15]
^神国」や「神州」という語は、対外的な緊張が高くなったときに用いられた。
^ a b 本来は「邪法」の対語は「正法」であるが、ここではこれを仏法(仏教そのもののこと)と言い表している。
^ 徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版には、「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録や天正遣欧使節の報告書にはヨーロッパ人がアジア人を奴隷貿易していたことが書かれている」と記されているが、これは出典が不明な上、朝鮮出兵の時代の日本になぜか「記者」がいたり、当時は外国人が入ることを許されなかった朝鮮においてヨーロッパ人がアジア人を使役していたりなど、事実と異なる記述がある。このため信憑性を疑問視する説もある。
^ その他の条文で「商人は出入り自由」としていること、後の朝鮮出兵において朝鮮人捕虜を日本に連れてきて労働力としていることなどから、これは主要な目的ではなく、明征服にあたって少しでも人口を減らしたくなかったために盛り込まれた条項と推測する山本博文の説もある[85]
^ a b c 1587年の追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告、1596年の追放令の更新を一連の流れとして記述することがある[31]
^ 秀吉の親書も含めた4通の手紙を受領したことが記録に残されている。
^ 日本によるフィリピン侵略は秀吉だけでなく、1630年松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた。1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[125]。その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 ? 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[125]

オランダ人は1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[126]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。


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