バッファロー_(ニューヨーク州)
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また、2005年には、リーダーズ・ダイジェスト誌で同市は全米で3番目に清潔な都市、と評された。

市の名前は、地元を流れる小川の名に由来する。これは一般にはフランス語 beau fleuve (美しい流れ)が転訛したものと考えられている。
歴史

この地方におけるヨーロッパ人の定住は、1758年のフランス人による入植地が最初とされている。バッファロー川の河口に築かれたこの入植地一帯は、現在はエリー郡となっている。しかし、この入植地はイギリスの攻撃により崩壊した。

1789年にアメリカ独立戦争の退役兵が初めてバッファローに入植した。丸太小屋を建て地元のアメリカ先住民と交易しつつ生活した。バッファロー周辺は1801年に始まるオランダ土地会社の売却対象となった。その結果、1811年には500人ほどが居住する村となった。1808年にはニューヨーク州ナイアガラ郡(現在のエリー郡を含む)が設置され、バッファローはその郡都となった。

1812年に始まった米英戦争では、1813年12月30日にイギリス軍とアメリカ先住民の連合軍による攻撃を受け、多くの建物が焼失した。バッファローは1816年に町に昇格した。

1825年にエリー運河が開通すると、バッファローはニューヨーク市と水路により直結され、その商業上の価値を増した。このとき約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した時の人口は1万人を超えた。

奴隷解放運動時代、バッファローはいわゆる「地下鉄道」の終着点であった。南部から脱出した黒人奴隷たちは、バプテスト教会に匿われたのち、フェリーでカナダオンタリオ州フォートエリーへ逃亡して自由の身となった。

1875年、バッファロー動物園が開園した。全米で3番目に古い歴史を持つ。

ナイアガラ川は全長56kmの短い川だが、標高差が99mと大きく水力発電に適していた。1895年に完成したアダムス発電所は豊富な電力を供給し、バッファローが工業都市へと発展する原動力となった[1]

20世紀初頭のバッファローは、アイルランドイタリアドイツポーランドからの移民の定住地となり、人口50万人のアメリカの主要都市のひとつとなった。

1927年にはピース・ブリッジによりカナダフォートエリー市と結ばれた。これは当時の一大国家事業であり、開通式には英国側からイギリス皇太子(後のエドワード8世)、弟ジョージ (ケント公)、イギリス首相、およびカナダ首相が、米国側からは副大統領およびニューヨーク州知事が出席した。バッファロー市庁舎

1932年にバッファロー市庁舎が建築された。30階建てで、展望デッキからはエリー湖を含む眺望が得られる。

バッファローに所縁のあるアメリカ大統領には、大統領就任前にバッファロー住民だったミラード・フィルモア、バッファロー市長を務めたグロヴァー・クリーヴランド、バッファローで1901年9月5日に狙撃されたウィリアム・マッキンリー、通常はワシントンで行われる大統領就任式を1901年9月14日にバッファローで行ったセオドア・ルーズヴェルトがいる。
地理

バッファローはエリー湖の東端に位置している。北緯42度54分17秒、西経78度50分58秒 (42.904657, -78.849405)[2]に位置し、帯広市釧路市(ともに北海道)とほぼ同緯度にある。同市はアメリカ合衆国内の他の主要都市よりカナダトロント市に地理的に近い。同市はカナダ・オンタリオ州フォートエリー市の反対側にあたる。

アメリカ合衆国統計局によると、バッファロー市は総面積136.0km2 (52.5mi2) である。このうち105.2 km2 (40.6 mi2) が陸地で30.8 km2 (11.9 mi2) が水域である。総面積の22.66%が水域となっている。

気候は冬季は寒冷であり、湖水効果雪による影響から年間降雪量は244.1cmと全米有数の積雪量となっている。


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