バッシャール・アル=アサド
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それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビー(英語版)首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったアレッポ県知事ムハンマド・ムスタファー・メロ(英語版)がバアス党大会で首相に指名され、3月14日にメロ内閣が発足した。この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の中堅・若手閣僚も含まれていた。今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣については情報・治安機関が人選を行っていたが、今回は実質的にバッシャールが人選を行った。

「腐敗との戦い」において最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。この事件についてはさまざまな説が飛び交い、数日前からズウビーの健康悪化や自殺未遂の噂が流れ、政権による暗殺との憶測も呼んだ。一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。

ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは体制内部の粛清と、綱紀粛正を進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。
大統領就任モスクワを訪問したバッシャール・アサド大統領とアスマ夫人(2005年1月)ダマスカスの旧市街の壁に描かれたバッシャールと、彼の「神がシリアを守る」という言葉(2006年)ラタキアで行われたバッシャール・アサド支持派の集会シリアからの移民によって開かれたアサド大統領を支持する集会(オーストラリアシドニー、2011年)

2000年6月10日に父ハーフィズが死去すると翌日陸軍大将に昇進、軍最高司令官に任命され、6月18日にはバアス党書記長に就任。7月10日に信任を問う国民投票を実施し、7月17日に後継大統領に就任した。

2001年にはアスマー・アル=アサドと結婚した。スンニ派の夫人は、アサド父子の出身母体である少数派のアラウィー派による最大宗派のスンニ派支配というイメージを払拭することが期待された。また英国育ちでもある彼女は、とかく閉鎖的な印象をもたれがちなシリアを西側諸国にアピールするスポークスマンとしての役割をも果たしてきた。

バッシャールは大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いためあまり国政で主導権を握ることはせず、もっぱらハーフィズ時代以来の首脳が政務を行っているのが政権の実態である。憲法で承認された絶大な大統領権力はバッシャール時代になるとあまり行使されなくなった。2007年5月には大統領に再任された。

2010年末よりはじまったアラブの春はシリアにもシリア内戦として飛び火し、批判の矛先はシリアの国家元首であるバッシャールにも向けられることとなった。反政府デモに対して当初は憲法改正や内閣改造、社会保障の拡大など妥協案も示されたが、デモの拡大に際し武力による鎮圧を企図したため、多数の死者を出すこととなった。このことにより国際社会からの批判も高まっているが、いまだ解決の糸口は見えていない。騒乱が内戦となって長期化するなか、欧米に支援された自由シリア軍シリア国民連合の統治能力に対する懐疑や、占領地域で厳格なシャリーアに基づいた統治を行う過激派組織ISILアル=ヌスラ戦線等のアルカイダ系反政府勢力の跋扈から、シリア国内では少数派ムスリム(アラウィー派ドゥルーズ派十二イマーム派など)やキリスト教徒を中心にアサド政権を支持する声も決して少ないとはいえず、また周辺諸国の利害関係や、独立を望む各地のクルド人勢力の動きも絡みあって、事態は複雑化している[2][3]。2014年の大統領選では88.7%の得票率を得て三選された[4]

2020年8月12日、議会演説中に体調を崩して一時退出。その後、議場へ戻り演説を再開したが体調面での不安が報道された。大統領側は体調不良の理由を、前日から何も食べていなかったためと説明している[5]

2021年3月8日には、アスマ夫人と共に新型コロナウイルスへの感染が発表された(3月30日、大統領府が完治を発表)。

2021年5月26日の大統領選挙(英語版)で得票率95.1%で四選(内戦に拡大する前の反政府デモ期に政権側から示された妥協案の2012年の憲法改正で2任期制限が設けられているが、改正以前の任期は対象外とされている)。イドリブ県の反体制派が支配する地域では投票が実施されなかった他、非バアス党や非翼賛政党の野党であっても広義では体制派に含まれる人民議会議員35名以上の推薦が立候補条件であるなど、反体制派や欧米諸国からは不正選挙と批判を受けた[6]
独裁者・外交関係

米紙ワシントンポストの週刊誌「パレード」の「世界最悪の独裁者」ランキングにて第12位に選ばれている。ブッシュ政権(当時)は、シリア封じ込め策をとっていた。アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマスやレバノンのヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、欧米から「テロ支援国家」と名指しされている。

2003年のイラク戦争後は、イラクからの難民や、逆にイラクに潜入する武装勢力がシリアに集まり、アメリカ合衆国との関係が悪化。さらに2005年のラフィーク・ハリーリーレバノン首相暗殺事件をきっかけに米欧を中心とする国際的な圧力を受け、シリア軍のレバノンからの全面撤退を強いられた。レバノンや中東和平問題をめぐり、イスラエルとの関係は現在も悪いままである。伝統的な友好国のロシアだけでなく、2004年6月に訪中して胡錦濤国家主席と会談を行うなど中国との関係も重視しており[7]、中国は2つのシリア最大の産油企業の大株主であり[8]、国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い[9]北朝鮮と核開発で協力しているという疑いをアメリカに持たれ、2007年9月にはイスラエル空軍によるシリア空爆が行われたと報じられている。後に北朝鮮と核開発で協力しているという見解をアメリカは公式見解として発表する。

イスラム協力機構アラブ連盟から追放されるまでスンニ派諸国と対立する一方で、先代以来の友好関係にあるイランとの関係を強固なものとし、また隣国トルコイラクとの関係を劇的に改善しているため、イラク戦争後の不安定な中東の政治状況の中で孤立を回避するよう努めていることがうかがえる。

ただ、2009年オバマ政権発足直後からアメリカが上院外交委員長らを相次ぎシリアに送ったことを「まず対話を始めて互いに問題解決にかかわることが大切だ」と歓迎しており、若干対米関係を修復させる態度を示している。

日本では2011年(平成23年)9月9日に、バッシャールが資産凍結の対象者となった[10]

2017年4月6日 米軍はシリアに対して「化学兵器を使用した報復」として、トマホークミサイル59発を使用してアサド政権軍の空軍基地に対するミサイル攻撃を実施した。これはトランプ政権の、軍事介入に慎重だった前オバマ政権との違いをアピールした物と見られており、シリアとアメリカの関係悪化が懸念される。

2017年4月、AFPでのインタビューで、シリアで起きた化学兵器攻撃への関与を否定した。「テロリストと結託しているという我々の印象は米国を中心とする西側諸国がミサイル攻撃の口実を得るために作ったものだ。」と反論した。国連内では「世界のあらゆる首都で計画されている陰謀の一部」と主張した[11]。「カーン・シェイクン化学兵器攻撃」および「シャイラト空軍基地攻撃」も参照

2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻では、「ソ連崩壊後の崩れた世界秩序を回復し、歴史を修正するものだ」と評価し、ロシアを支持した[12]
画像

バッシャールと、ブラジルルイス大統領(2010年)

バッシャールと、ロシアのメドヴェージェフ首相(2010年)

バッシャールと、アスマ夫人

脚注[脚注の使い方]^ 巧妙メディア戦略…「砂漠のバラ」と呼ばれたシリア大統領夫人の"虚像" - 『産経新聞』2012/7/1


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