バッキンガムシャー
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州都はアイルズベリーである。

カウンティであるバッキンガムシャーには、いずれも単一自治体であるディストリクト(地区)のバッキンガムシャーおよびミルトン・キーンズが含まれる。伝統的な州境界線の詳細はバッキンガムシャーの歴史(英文)を参照のこと。

オックスフォードシャーノーサンプトンシャーベッドフォードシャーハートフォードシャーバークシャーグレーター・ロンドンと接している。

1974年の地方制度改革でバッキンガムシャーはスラウイートンをバークシャーに譲る。1998年以降、スラウとウィンザー・アンド・メイデンヘッドの自治権が強まり、バークシャーに属する、イートンも含めた単一自治体のウィンザー・アンド・メイデンヘッド王立区を形成している。ミルトン・キーンズは1997年に自治権が強化されたが、バッキンガムシャーに属する。

バッキンガムシャーは農業州で、南にチルターン丘陵、北にヴェイル・オブ・アイルズベリ(アイルズベリ谷)がある。最高地点はウェンドーヴァー近くの海抜876フィート (267メートル)のクーンビヒルである。肥沃な農業地があり、多くは所有者のいる土地で、特に19世紀ロスチャイルド家が所有していた(バッキンガムシャーのロスチャイルドの資産(英文)を参照のこと)。産業は農業を主体に家具造り(伝統的にハイウィコムが中心)、製薬会社、サービス業と販売業がある。南のロンドンとは通勤電車が走っている。
歴史

バッキンガムシャーはアングロ・サクソン語で、「ブッカの家のある地区」を意味する。「ブッカの家」は、州北部のバッキンガムのことで、アングロ・サクソン族の地主に因んだものである。カウンティの名前としては12世紀から使われているが、カウンティそのものはマーシア王国585年 - 919年)が分裂してから存在している。

バッキンガムシャーの村落にはアングロ・サクソン時代より前に遡るものがある。例えばアイルベズベリは少なくとも紀元前1500年まで遡ることが知られている。当時のブリトン語の名前(ペン、ウェンドーヴァー)やブリトン語とアングロ・サクソン語が組み合わさった(ブリル、チェトウォード、大ブリックヒル)という場所が一杯あり、州全域にローマ時代以前の土塁がある。ブリトンで最も有名な王の一人クノベリヌスは、この州に城があり(今も土塁が残っている)、キンブルズとして知られる村々に自分の名前を使わせた。

ローマの影響は、州を横断するローマ街道に最も広範囲にわたって見ることができる。ワットリング街道とエイクマン街道は、共に東から西に横断し、チルターンヒルズに連なっている。上記の2つは、ロンドンからローマ時代のイギリス各地と結ぶ重要な通商路であり、後者は防衛線として使われたが、古くからあった道を拡張したものの可能性がある。

しかし、バッキンガムシャーの歴史上最も大きな影響を受けたのは、アングロ・サクソン族くらいである。バッキンガムシャーとその大半の地名は、アングロ・サクソン族が付けたわけではないが、現代の領域は、アングロ・サクソン時代と同様の領域になっている。アングロ・サクソン年代記が伝える大きな戦いの一つが、ウェセックス王チェルディッチとチアズレーのブリトン人の戦いであり、この時代に聖人が3人もクヮレンドンで生まれ、アングロ・サクソン時代後期にブリルに王宮が作られた。バッキンガムシャーの実際の富は、ドゥームズデイ検地1086年に行われた際の記録に詳しい。

プランタジネット家はバッキンガムシャーの富を利用し続けた。ウィリアム征服王は自分と家族のために領土の大半を私物化した。腹違いの兄弟オドーは大地主になった。イングランドの野生の白鳥全てに言えるが、古代の獲物は多く国王の所有物になった(バーンウッドフォレスト、ホワッデンチェース、プリンスリズボローが主な場所であった)。王が趣味で白鳥を飼う古代の伝統から後にバッキンガムシャーの紋章に描かれることになる(後述)。

もう一つの流れは、王室への寄進で、自分の趣味で決めた修道院解散令によるもので、ほぼ3分の1がヘンリー8世の私有財産になった。ヘンリー8世はトマス・ブーリンの娘アンと結婚できるようにトマスに気に入られるようにアイルズベリをバッキンガム以上の町にしなければならない事情もあった。もう一人の妻キャサリン・パーもバッキンガムシャーに勢力があった。


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