バチカン
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ヴァチカンやバティカン、ヴァティカン、ヴァティカーノとも表記される。
概要

バチカンはローマ教皇(聖座)によって統治される国家であり[3]カトリック教会東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる(「#国民と国籍」節で後述)。

ローマ教皇庁の責任者は国務省長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、市国の領域の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。

教皇は2013年3月13日に選出されたアルゼンチン出身のフランシスコが務めている。国務省長官はイタリア人のピエトロ・パロリン枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はスペイン出身のフェルナンド・ベリゲス・アルサガ(英語版、イタリア語版)枢機卿が務めている。

バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。

公用語ラテン語であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。警護に当たるスイス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語ポルトガル語英語も常用されている。

バチカンを支える数千人の職員の大半はイタリア国内に居住しており、体裁上国外から通勤する形となっている[4]
歴史

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。約3000年前には「ネクロポリス」(古代の死者の街)として埋葬地として使用され、その後もローマ人の共同墓地として使用されていた[5]326年コンスタンティヌス1世によって聖ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。
教皇領詳細は「教皇領」を参照

やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、752年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。

教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年アヴィニョン捕囚時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に竣工した。

教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、イタリア統一運動の活発化に伴い1860年イタリア王国が成立すると教皇領の大部分を占める北部地域の教皇領が接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では教皇領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていた。
バチカンの囚人詳細は「バチカンの囚人」および「第1バチカン公会議」を参照

1870年普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年には、イタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。
バチカン市国

このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。詳細は「ライヒスコンコルダート」および「ルートヴィヒ・カース」を参照詳細は「第2バチカン公会議」を参照

1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が、信教の自由を考慮して修正された。
政治サン・ピエトロ大聖堂

法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳未満の枢機卿(すうききょう)たちの選挙コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は、男性カトリック信徒であるということだけであるが、実質上は80歳未満の枢機卿たちの互選になっている。

主権国家としてのバチカン市国と主権実体としての聖座及び教皇庁は同義のようだが同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governatorato dello Stato della Citta del Vaticano) が存在するが、教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。

委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生すると、カメルレンゴと首席枢機卿以外の省庁の長官や評議会の議長は自動的に(一旦)解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。そして新しい教皇が選ばれると、新教皇は使徒座空位前に務めていた各長官・議長に対して当面の間職務を続けるよう命じ、業務が再開されることとなる。もちろん新教皇が長官・議長だった場合は就いていたポストに後任が割り当てられることとなる。直近の例は2005年のベネディクト16世の選出時で、彼が教理省長官に就いていたため、後任がほどなく選ばれている。
国境・国家安全保障スイス人衛兵

バチカン市国は、一切の軍隊を保持していない。警察力永世中立国であるスイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」が担当している。
国境

イタリアとの入出国は自由。国境もガードレール風のがあるだけで、国境検問所の類いは一切無く、よって出入国管理体制もない。国内は、公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から首脳貴賓が参列した2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世葬儀では、国境の外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上の国内警備につながった。
安全保障

教皇の衛兵として、スイス人衛兵が常駐している(2007年の時点では110人)。1505年1月22日に教皇ユリウス2世により創設され、1527年、ローマがカール5世神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、その身を犠牲にしてクレメンス7世の避難を助けた。


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