バチカン
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総計0.44km2244位
水面積率極僅か

人口
総計(2020年615人(196位
人口密度1398人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年)xxx,xxxユーロ (€)

GDP(MER
合計(xxxx年)xxx,xxxドル(???位
1人あたりxxxドル

GDP(PPP
合計(xxxx年)xxx,xxxドル(???位
1人あたりxxxドル

独立
ラテラノ条約締結1929年2月11日
ラテラノ条約批准1929年6月7日

通貨ユーロ (€)(EUR[注釈 2][注釈 3]
時間帯UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1VA / VAT
ccTLD.va
国際電話番号379

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バチカンとは、バチカン市国とカトリックの総本山の総称である[1]。国家としてのバチカン市国(バチカンしこく、ラテン語: Status Civitatis Vaticanae、イタリア語: Stato della Citta del Vaticano)は、1929年にラテラノ条約により独立国となった南ヨーロッパに位置する国家で、その領域はローマ市内にある[2]。国土面積は世界最小である(0.44km2)[注釈 4]。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカン、ヴァティカーノとも表記される。
概要

バチカンはローマ教皇(聖座)によって統治される国家であり[3]カトリック教会東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる(「#国民と国籍」節で後述)。

ローマ教皇庁の責任者は国務省長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、市国の領域の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。

教皇は2013年3月13日に選出されたアルゼンチン出身のフランシスコが務めている。国務省長官はイタリア人のピエトロ・パロリン枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はスペイン出身のフェルナンド・ベリゲス・アルサガ(英語版、イタリア語版)枢機卿が務めている。

バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。

公用語ラテン語であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。警護に当たるスイス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語ポルトガル語英語も常用されている。

バチカンを支える数千人の職員の大半はイタリア国内に居住しており、体裁上国外から通勤する形となっている[4]
歴史

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。約3000年前には「ネクロポリス」(古代の死者の街)として埋葬地として使用され、その後もローマ人の共同墓地として使用されていた[5]326年コンスタンティヌス1世によって聖ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。
教皇領詳細は「教皇領」を参照

やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、752年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。

教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年アヴィニョン捕囚時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に竣工した。

教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、イタリア統一運動の活発化に伴い1860年イタリア王国が成立すると教皇領の大部分を占める北部地域の教皇領が接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では教皇領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていた。
バチカンの囚人詳細は「バチカンの囚人」および「第1バチカン公会議」を参照

1870年普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年には、イタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。
バチカン市国

このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。詳細は「ライヒスコンコルダート」および「ルートヴィヒ・カース」を参照詳細は「第2バチカン公会議」を参照

1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が、信教の自由を考慮して修正された。
政治サン・ピエトロ大聖堂


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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