法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳未満の枢機卿(すうききょう)たちの選挙(コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は、男性のカトリック信徒であるということだけであるが、実質上は80歳未満の枢機卿たちの互選になっている。
主権国家としてのバチカン市国と主権実体としての聖座及び教皇庁は同義のようだが同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governatorato dello Stato della Citta del Vaticano) が存在するが、教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。
委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生すると、カメルレンゴと首席枢機卿以外の省庁の長官や評議会の議長は自動的に(一旦)解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。そして新しい教皇が選ばれると、新教皇は使徒座空位前に務めていた各長官・議長に対して当面の間職務を続けるよう命じ、業務が再開されることとなる。もちろん新教皇が長官・議長だった場合は就いていたポストに後任が割り当てられることとなる。直近の例は2005年のベネディクト16世の選出時で、彼が教理省長官に就いていたため、後任がほどなく選ばれている。
国境・国家安全保障スイス人衛兵
バチカン市国は、一切の軍隊を保持していない。警察力も永世中立国であるスイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」が担当している。 イタリアとの入出国は自由。国境もガードレール風の柵があるだけで、国境検問所の類いは一切無く、よって出入国管理体制もない。国内は、公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から首脳や貴賓が参列した2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀では、国境の外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上の国内警備につながった。 教皇の衛兵として、スイス人衛兵が常駐している(2007年の時点では110人)。1505年1月22日に教皇ユリウス2世により創設され、1527年、ローマがカール5世の神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、その身を犠牲にしてクレメンス7世の避難を助けた。衛兵はスイスでカトリック教会からの推薦を受けた、カトリック信徒の男性が選ばれている。 衛兵の制服は、一説にはミケランジェロのデザインとも言われるが、1914年に制定されたものである。その派手なデザインは、伝統的なスイス傭兵というよりも、むしろランツクネヒトを彷彿とさせる。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵である。1981年、ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったという。 かつては、スイス人衛兵だけでなく、教皇騎馬衛兵 日本の外務省は、ローマ教皇を国家元首とする独立国家をバチカン市国と呼び、その聖俗両面の総称をバチカンとしている[6]。 日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は、1981年のヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。また「教える」という意味を含む「教皇」が、より職務を表していると考えた[7]。 以降、日本のカトリック教会の公式な表記では「法王」でなく「教皇」が用いられている。このとき、東京都千代田区にある「ローマ法王庁大使館」においても、これにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本国政府から「日本における各国公館の名称変更は、クーデターなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称を使用していた。(官報や外務省の公文書でも「ローマ法王」の語が用いられているため、これが日本国政府の用いる公式名称であるとみなされていた)このような経緯もあって、マスメディアでは長らく「教皇」と「法王」の呼称が混用されていた。 2018年2月9日、衆議院予算委員会で立憲民主党の山内康一がこの件で質問を行っている。
国境
安全保障
日本語での名称について