このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠(Basket)を用いたことから「Basket ball」と名付けられた[17]。
その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され[8]、1892年1月になって正式に「Basket ball」という名称に定まった[14]。また、当初、英語での表記は2語で「Basket ball」であったが、1921年に公式に1語で「Basketball」となった[19]。日本語では直訳した「バスケットボール」の他、籠を使う球技であることから「籠球」とも訳される。
プレーヤー人数
ネイスミスはレクリエーションを想定していたことから、両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため、13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった[20]。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている[21]。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった[14]。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである[22]。
コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。
ゴールの形状
ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた[22]。ゴールに使われた桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている[22][23]。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる[22][24]。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない[25]。
バックボード(英語版)
バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった[26]。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8m以上の木板が用いられるようになった[26]。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている[26]。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった[27]。 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、国際YMCAトレーニングスクールを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された[5](1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟 (FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された[5]。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された[5]。 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、オスカー・ロバートソン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成[5]、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。
発展
FIBAの結成
プロリーグの創設と発展
ドリームチームの時代