バスケットボール男子アメリカ合衆国代表
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ジョンソンは1980年代を中心に活躍し、NBAファイナルで5回の優勝経験を持つ名ポイントガードだったが、1991年HIV感染を理由に突然の引退表明を行っていた。USAバスケットボールの説得の結果ジョンソンは出場を受け入れた。

ジョンソンは次に、現役時代にライバルとして共にNBAを牽引したラリー・バードの説得を試みた。バードは当時怪我をしておりオリンピック参加に難色を示したが、周囲の人々の勧めもあり出場を表明した。ジョンソンはさらに、当時人気の絶頂にあったマイケル・ジョーダンも誘った。ジョーダンは既にロサンゼルス五輪で金メダルを獲得しており、当初出場する意思はないと報じられたが、結局は五輪参加を承諾した。

USAバスケットボールは監督としてチャック・デイリーを任命した。デイリーは1980年代を中心にNBAのデトロイト・ピストンズを率いて2度の優勝経験を持つ名将だったが、1991年にチームが試合に敗れる折に試合終了前に選手たちが会場を去るというスキャンダルを経験していたため、一部に監督としての資質を疑問視する声もあったが、バッド・ボーイズと呼ばれた曲者揃いのピストンズを率いていたこともあり、このスター集団をまとめられるのはデイリーしかいないというのが大方の見方だった。

その退場事件の首謀者が、ピストンズの中心選手だったアイザイア・トーマスであった。トーマスは実績と実力では代表に選ばれる資格があると考えられていたが、この事件のために選考されなかったと言われている。

USAバスケットボールの方針により、チームには大学生が一人含まれることになった。当時デューク大学に所属しNCAAトーナメントを制覇するなど活躍していたクリスチャン・レイトナーが学生選手として選ばれた。大学界で活躍していたもう一人の大物選手、ルイジアナ州大学のシャキール・オニールは、この時は選に漏れている。

NBAではスター選手が一堂に会するオールスター戦があるが、その機会には東軍と西軍に分かれて戦うため、スター級の選手が集まる一つのチームはいわばファンの夢でもあった。そのため、ファンやマスコミは代表チームをドリームチームと呼ぶようになっていた。

この時の男子アメリカ代表は、ドリームチームと呼ばれた最初のチームだったのでドリームチームIあるいはオリジナル・ドリームチームと呼ばれている。

オリンピックに参加したドリームチームは、各試合で相手チームを圧倒し、全8試合で平均43.9点差をつけて勝利した。相手国代表選手は、試合前にアメリカ代表チームに写真撮影やサインを求めるなど、初めから勝てるとは思っていない状態だった。

ドリームチームは予選リーグで6勝0敗、決勝トーナメントでは準決勝でリトアニア、決勝でクロアチアを破り、金メダルを獲得した。マイケル・ジョーダンやパトリック・ユーイングにとっては、1984年ロサンゼルスオリンピックに続き2度目の金メダル受賞となった。デビッド・ロビンソンにとっては前回のソウル五輪の雪辱を果たす形となった。

しばしば史上屈指の名選手として挙げられるマイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、ラリー・バードを初め、この初代ドリームチームのメンバー12人のうち実に10人がのちの1996年に「NBA史上の偉大な50人の選手」に選ばれていおり、引退するまでにNBAレギュラーシーズンでMVPを受賞した選手は7人を数え、12人のうち11人はNBAチームで永久欠番の指定を受けている(NBAでは指定のないレイトナーもデューク大学で永久欠番の指定を受けている)。このように高い評価を受けた選手が多数集まったことや、オリンピック中の試合内容から、ファンやマスコミ関係者の多くはこの年のドリームチームを歴代最高のアメリカ男子バスケットボール代表チームと評価している。

他のオリンピック参加選手と違い、ドリームチームのメンバーは選手村ではなく高級ホテルに宿泊した。これは不要な混乱を避けるためとされたが、不遜な態度として批判する声もあった。
ドリームチームI参加者
監督陣

括弧内は当時所属していたチームや大学。

監督:
チャック・デイリーニュージャージー・ネッツ

アシスタントコーチ: レニー・ウィルケンズクリーブランド・キャバリアーズ)、P.J.カーリシモ(シートン・ホール)、マイク・シャシェフスキーデューク大学

選手

年齢と所属は当時のもの。

No.名前ポジション年齢所属出場試合/先発平均得点
14
チャールズ・バークレーフォワード29フェニックス・サンズ8/418.8
9マイケル・ジョーダンガード29シカゴ・ブルズ8/814.9
11カール・マローンフォワード29ユタ・ジャズ8/413.0
13クリス・マリンフォワード29ゴールデンステート・ウォリアーズ8/212.9
10クライド・ドレクスラーガード30ポートランド・トレイルブレイザーズ8/310.9
6パトリック・ユーイングセンター30ニューヨーク・ニックス8/49.5
8スコッティ・ピッペンフォワード26シカゴ・ブルズ8/39.0
5デビッド・ロビンソンセンター27サンアントニオ・スパーズ8/39.0
7ラリー・バードフォワード35ボストン・セルティックス8/38.4
15マジック・ジョンソンガード32元 ロサンゼルス・レイカーズ6/58.0
4クリスチャン・レイトナーフォワード22デューク大学8/04.8
12ジョン・ストックトンガード30ユタ・ジャズ4/02.8

ドリームチームII(1994年世界選手権)

1992年のバルセロナ五輪に続き、1994年カナダトロントで開催されたFIBA世界選手権にも、NBAのスター選手がアメリカ代表として参加した。この時のチームはドリームチームIIと呼ばれている。

ドリームチームIIでは、初代ドリームチームに選ばれなかった選手が代表に選ばれた。シュートの名手として名を上げていたレジー・ミラー、かつてマイケル・ジョーダンダンクシュートを競い合ったドミニク・ウィルキンズ、NBAの決勝で活躍したケビン・ジョンソンダン・マーリーなどが含まれていた。

この時の代表は、若手選手が若干多いことも特徴だった。前回のオリンピックでは選考に漏れたシャキール・オニール、ダンクシュートで人気のあったショーン・ケンプ、小柄ながら当たりに強いセンターアロンゾ・モーニングはまだ20代の半ばだった。

初代ドリームチームに選ばれる実力があると言われながら出場できなかったアイザイア・トーマスは、ドリームチームIIには選出されることになった。

前回のドリームチームと違って後に「NBA史上の50人の偉大な選手」に選ばれるのはアイザイア・トーマスとシャキール・オニールの二人だけだった。オニールはこの時まだ22歳であり、トーマスは怪我で試合には出場できなかった。

監督に選ばれたのは、走るオフェンスに評価の高いドン・ネルソンだった。

大会の初戦でドリームチームIIはスペインに勝利。


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