バスク・ペロタ
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ハンド・ペロタは素手または最小限の防具を用いて行うペロタである。バスク語ではエスク・ウスカまたはエスク・ウスカコ・ピロタ、スペイン語ではペロタ・ア・マノと呼ばれる。伝統的なボールは硬い核の周囲に羊毛を巻いて革で覆う。標準的なボールは92-95グラムであるべきとされる。長さの短いコートを用い、シングルス(1人対1人)またはダブルス(2人対2人)で行われる。伝統的また専門的には、ハンド・ペロタは男子選手のための競技であり、打撃するほうの手が腫れることで一般人と区別できる。メキシコ、南アメリカ、キューバ、イタリア、アメリカ合衆国の多くの州、特にフロリダ州などで行われている。スカッシュやファイブスによく似ており、選手は相手選手の手の届かない場所に向かって、壁に対してボールを打つ。
ハイ・アライ詳細は「ハイアライ」を参照

ヨーロッパ以外でハイ・アライとして知られる競技は、バスク語スペイン語ではセスタ・プンタと呼ばれる[10]。ハイ・アライでは籠状で細長く湾曲した特殊なグローブを使用する。このグローブは1860年頃にガンチキ・ディトゥルビデによって導入された[11]、ロング・バージョンは1888年にMelchior Curuchageが導入した[11]。選手はこのグローブを使用してゴムボールをキャッチし、メインコートに投げ返す。バスク自治州政府はハイ・アライを「地球上でもっとも速い試合」であると主張しており、1979年8月3日にアメリカ合衆国ロードアイランド州のニューポート・ハイ・アライ場で、ホセ・ラモン・アレイティオが時速302km(時速187.65マイル)を記録した[11]
その他の種目

パレタ・ゴマは、アルゼンチン・パレタ・ゴマとも呼ばれる。短く幅の広い木製のバットを用い、固形でも中空でもない、ガスが充填されたゴムボールを使用する。パレタ・ゴマは男女それぞれがプレーでき、アルゼンチンで発明されたペロタのバージョンのひとつとして広く普及している。その他の種目には、パレタ・クエロ(皮革)、パラ・コルタ(短棒)、パラ(長棒)、ホコ=ガルビ、レモンテ、シャレ、フロンテニスなどがある。

素手でボールを打つ直前のハンド・ペロタ選手

ハイ・アライ用のグローブ

ボールを打った直後のハイ・アライ選手

パレタ用の木製のバット

ラクロスのクロスに似たシャレ用のグローブ

大会
バスク地方初代優勝者のアターノ3世

出場選手と契約を結んでいるアセガルセとアスペが主導し、バスク地方ではバスク・ペロタのプロリーグが開催されている。1940年、スペイン・バスク・ペロタ連盟はカンペオナート・マノマニスタ(素手部門1部)を初開催し、当初は隔年で、1950年以降は毎年開催されている。初代優勝者はアターノ3世(1940年)であり、最多優勝者はレテギ2世(11回)である。優勝決定戦はギプスコア県サン・セバスティアンのアターノ3世競技場、ギプスコア県エイバルのアステレーナ競技場、ビスカヤ県ビルバオのビスカヤ競技場などで開催される。1957年からは素手部門2部も開催されている。1994年、テレビ映像を制作するアセガルセは中継でボールが見やすくなるように、競技場(フロントン)の床面を緑色に彩色した[12]
主要大会


カンペオナート・マノマニスタ(素手、シングルス1部)

カンペオナート・マノマニスタ・デ・セグンダ・カテゴリア(素手、シングルス2部)

カンペオナート・デ・マノ・パレハス(素手、ダブルス1部)

クアトロ・イ・メディオ・バスク選手権

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国ではハイ・アライがプロスポーツとして開催されており、パリミューチュエル方式による賭博の対象となっている。プロ環境では賭博のニーズに適した「キニエラス」と呼ばれる特別なプレーをすることが一般的である。プロのゲームは賭博に解放されており、アメリカ合衆国やマカオでは賭博がこの競技の人気を高めている重要な側面でもある。各国連盟の他に、企業リーグなどのプロ大会も存在する。ハイ・アライ選手を擁護する組合として国際ハイ・アライ選手協会がある。
世界選手権

1952年、国際バスク・ペロタ連盟による国際大会がリブレ広場で初開催された。1958年にはこの大会が世界選手権に移行した。1952年から2010年までの世界選手権における国別獲得メダル数は以下のとおりである[13][14][15]。1952年大会からのメダル数を合計している。1952年から1970年までは銅メダルがなかった。

世界選手権での国別メダル数
国金銀銅通算
1 フランス625239153
2 スペイン606732159
3 アルゼンチン45231381
4 メキシコ403725102
5 ウルグアイ4291447
キューバ241218
チリ0606
8 アメリカ合衆国0123

夏季オリンピック1900年のオリンピックで競技中の選手「1900年パリオリンピックのバスクペロタ競技」も参照

バスク・ペロタは1900年パリオリンピックで正式競技として開催されたが、出場したのはスペインとフランスの2か国だけだった。1924年パリオリンピック(男子)、1968年メキシコシティーオリンピック(男子)、1992年バルセロナオリンピック(男女)では公開競技として開催された。1924年のパリオリンピックでは3種目が開催され、スペイン勢が3個の金メダルを獲得した。1968年のメキシコシティーオリンピックでは5種目が開催され、スペイン勢が2個、メキシコ勢が1個、フランス勢が1個の金メダルを獲得した。1992年のバルセロナオリンピックでは10種目が開催され、スペイン勢が5個、メキシコ勢が3個、アルゼンチン勢が2個の金メダルを獲得した。

夏季オリンピックでの開催種目
大会種目大会種目
1900 パリ
(正式競技)セスタ・プンタ 1992 バルセロナ
(公開競技)バスク・ペロタ(54m)
フロンテニス男子(30m)
1924 パリ
(公開競技)ハンド・ペロタフロンテニス女子(30m)
パレタハンド・ペロタ ダブルス
バスケット・ペロタパレタ・レザー(トリンケット)
1968 メキシコシティ
(公開競技)バスケット・ペロタパレタ・ラバー(トリンケット)
パレタ・ラバーハンド・ペロタ シングルス(36m)
パレタ・レザーハンド・ペロタ ダブルス(36m)
フロンテニスペロタ・レザー(36m)
ハンド・ペロタショート・バット(36m)

メディア

バスク地方出身の映画監督であるフリオ・メデムは『バスク・ボール』という映画を撮影し、ペロタをバスク政治のメタファーとして用いた。イェルゲン・レスは『ペロタ』(英語版)というドキュメンタリーを撮影した。フィリップ・リーコックによる1956年の『The Spanish Gardener』、ラッセル・ラウズの西部劇『Thunder in the Sun』、1978年のイタリア映画『Pari e dispari』にはペロタが登場する。テレビドラマ『マッドメン』のシーズン3第4話「遺言」では、ヴィンセント・カーシーザー演じる営業マン(役名:ピート・キャンベル)が「アメリカ合衆国でハイ・アライを販促したいクライアント」を演じている。ザ・シンプソンズホーマーの同僚であるレニーは、ペロタ競技場(フロントン)に住んでいることが明かされている。

ラグビーフランス代表イマノル・アリノルドキフランス領バスク出身であり、14歳でラグビー選手に転じる前はペロタをプレーしていた[16]


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