バクトリア
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しかしマケドニア軍はヒツジウシの皮袋、手製のを使い渡河してソグディアナに侵入、ベッソスを捕えて処刑した。このときベッソスを捕えてアレクサンドロスに引き渡したのは、ベッソスの側近であるスピタメネスであったが、彼はその後、アレクサンドロスの不在に乗じてサマルカンド留守の2部隊を攻撃し全滅させた。その頃アレクサンドロスは、ヤクサルテス川南岸にマケドニア軍兵士の殖民都市(アレクサンドリア)を建設中で、北方のサカ族を攻撃していたが、その報を聞くとサカ族の軍を撤退させた後、サマルカンドに向かった。これを聞いたスピタメネスはオクサス川を渡ってバクトリアへ遁走した。スピタメネスはその後、しばしばソグディアナ・バクトリアを襲撃したが、あるとき遊牧民に殺され、その首はアレクサンドロスに献上されることとなった。こうして紀元前327年までにトゥーラーンの征服を完了したアレクサンドロスは、この地方でイスカンダール、またはイスカンダール・ズルカルナイン(二本角のアレクサンドロス[6])と呼ばれるようになる。[7]
セレウコス朝セレウコス朝の最大領域(黄色)。詳細は「セレウコス朝」を参照

アレクサンドロスが紀元前323年バビロンで死去すると、各地で後継者が独立勢力を興し、抗争によって何度かバクトリアの支配者が交替した後、紀元前312年になって将軍のセレウコス勝利王(ニカトール)が掌握した。しかし、紀元前280年にセレウコス1世は部下に殺される[8]。3代目の君主アンティオコス2世テオス(在位:紀元前261年 - 紀元前246年)は、ディオドトスという者にバクトリア・ソグディアナのサトラップ(総督)を任命した。しかしアンティオコス2世が死去すると、その2人の息子の間で王位継承争いが起きたため、各地でセレウコス朝からの離反が始まった。[9]
グレコ・バクトリア王国グレコ・バクトリア王国の領域詳細は「グレコ・バクトリア王国」および「インド・グリーク朝」を参照

紀元前250年頃、「千の都市のバクトリア」と呼ばれたこの中央アジアの富裕な地の総督であったディオドトスは、セレウコス朝から独立してグレコ・バクトリア王国を建国したとされるが、この前後のことは明らかではない。

グレコ・バクトリア王国が最も強盛となるのは、紀元前200年 - 紀元前160年頃のデメトリオス1世以後のことで、その頃のバクトリアのギリシア人は、ヒンドゥークシュ山脈中部のカーブル盆地を根拠地として、南東へ向かってインドに侵入し、その西北部では有名な仏教の保護者であるアショーカ王の死で衰退していたマウリヤ朝の領土を奪取した。しかしそのデメトリオスは紀元前160年頃、エウクラティデスに王位を簒奪される。エウクラティデスは自らをマハーラージャと称して、バクトリア王であると同時にインドの支配者であることを宣言した。しかし紀元前156年頃、彼はその息子に殺害され、間もなく西北インドのギリシア人王国(インド・グリーク朝)はメナンドロス1世を最後として消滅してしまい、その子孫たちはインド人の中に吸収されてしまう。一方バクトリア本国に残された少数のギリシア人は、西方のペルシアやメソポタミア、南のインドなどの文明圏にとっては、剽悍なこれらの遊牧騎馬民族の侵入に対する防壁、あるいは緩衝地帯の役割を担っていた。

紀元前3世紀の半ば頃から、カスピ海西方の草原で勢力を拡大しつつあった遊牧民族パルティアは、アレクサンドロスの継承王朝であるセレウコス朝とも、東方のバクトリア王国とも交渉を持っていた。彼らは次第にこの二つのギリシア人国家に対する圧力を増大しつつあったが、バクトリアにとっての脅威はむしろ北方および東方の遊牧民、サカ人とトハラ人であった。サカ人は早くからパルティアに服属したが、トハラ人はソグディアナを占領し、一方ではパルティアと対抗し、南方ではバクトリアに圧力をかけていた。しかし、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけての中央アジアの情勢についての史料が乏しくなり、この頃のバクトリアの歴史が不明瞭となる[10]
張騫の西域訪問シルクロードとバクトラ(現在のバルフ)。中央下あたりに位置する。

これよりはるか東方、中国大陸を支配する漢帝国は北方の遊牧騎馬民族である匈奴の侵入に悩まされていたが、遂に西方の月氏と共同で匈奴を撃つべく、武帝(在位:前141年 - 前87年)は張騫を使者とした使節団を西域に派遣した。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。張騫によると、この大月氏国の都は?水(オクサス川)の北(ソグディアナ)に在り、その川の南にある大夏を役属させていたという。大夏とはおそらくトハラの転写と思われ、かつてバクトリアに侵入していたトハラ人もしくはトハーリスターン(トハラ人の土地)であると思われる。その大夏の都は藍市城といい、これがバクトラにあたるといわれるが、定かではない。しかし、いずれにしてもこの地がバクトリアであるのは間違いない[11]

当時のバクトリアは、アシオイ、パシアノイ、トカロイ、サカラウロイなどの侵寇を被っただけでなく、紀元前136年頃からはパルティアの圧力が強くなり、バクトリアのギリシア人は一方でこのような遊牧民と戦うとともに、他方ではヒンドゥークシュ山脈を越えてインド北西部に遠征した。そのため、もともと少数であったギリシア人の数は減少し、紀元前140年?紀元前130年までには、グレコ・バクトリア王国は消滅してしまったらしい。張騫が大夏などの西域を訪れたのはこの後まもなくのことだと思われる。おそらくトハーリスターンと呼ばれるのもこの頃だと思われる(以後トハーリスターンと表記)[12]
クシャーナ朝クシャーナ朝の領域詳細は「クシャーナ朝」を参照

大月氏は大夏を征服すると、その地に和墨城の休密翕侯(きゅうびつきゅうこう)、雙靡城の雙靡翕侯(そうびきゅうこう)、護澡城の貴霜翕侯(きしょうきゅうこう)、薄茅城の?頓翕侯(きつとんきゅうこう)、高附城の高附臓侯(こうふそうこう)の五翕侯[13]を置いた。それから100余年が過ぎた時、貴霜翕侯の丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして、自立して王となり、貴霜王と号した。丘就卻は安息(パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取った。また、濮達国や?賓国を滅ぼし、支配下に置いた。丘就卻は80余歳で死に、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。ここでの貴霜翕侯とはクシャーナを指し、丘就卻とはクジュラ・カドフィセスに比定される。つまり、次にトハーリスターンを支配したのはクシャーナ朝であった。クシャーナ朝は、トハーリスターンからインド北西部までを支配下に置き、さらに広大な間接支配地域をもっていたものと思われる。しかし、クシャーナ朝はカニシカ1世以後しだいに衰え、3世紀の半ば頃にはサーサーン朝の圧力に屈してその附庸国のような状態になった(クシャーノ・サーサーン朝)。
キダーラ朝キダーラ朝の領域詳細は「キダーラ朝」を参照

5世紀初頭、サーサーン朝の東方政策が緩んだ隙にキダーラという者がこの地を掌握して独立し、キダーラ朝を創始した。しかし、まもなくして北の遊牧民エフタルの侵攻により、5世紀中ごろにはエフタルに滅ぼされた[14]
エフタルエフタルの領域詳細は「エフタル」を参照

エフタルはキダーラ朝に侵入するとともに、カスピ海南東のサーサーン朝に攻撃を仕掛けた。このときサーサーン朝の君主バハラーム5世(在位:420年 - 438年)はすぐさまエフタル討伐に出て、不意を衝かれたエフタルは敗走してオクサス川の北に遁走した。ペーローズ1世(在位:459年 - 484年)の時代になると、エフタルの活動が激しくなり、サーサーン朝のペーローズ1世はカスピ海東北に遠征してエフタルと戦ったものの、敗北を喫し、屈辱的な講和を結ぶこととなった。さらにペーローズ1世は484年にもエフタルと戦うが、そこで戦死してしまう。エフタルの最盛期には中央アジアの広大な領土を支配し、西トルキスタンとインド北西部をその版図とした。しかし、6世紀に入ると、強大なサーサーン朝の相次ぐ攻勢によってエフタルは次第に衰退し、558年突厥とサーサーン朝の挟撃にあってその10年後には滅亡した[15]


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